先祖附(天保11年12月23日) その8
くずし字解読
願之通、隠居被 仰付候 | 願いの通り、隠居を命じられました。 |
一 私高曾祖父、高見権右衛門儀、先祖三右衛門江、家督 | 一 私の祖父の祖父である高見権右衛門(当家五代)は、先祖の三右衛門へ、家督 |
被為拝領、大組附ニ被 仰付、氏家甚左衛門組二、被 | を拝領されて、大組附を命じられ、氏家甚左衛門の組に、 |
召加、組並之御奉公、相勤申候。享保五年九月、阿蘇 | 召し加えられ、それなりの奉公を勤めました。享保五年(1720)九月、阿蘇の |
於上宮 | 上宮(阿蘇神社)で、 |
公義定例之御祈祷、 御名代、被 仰付、相勤 | 公に対して果たすべき定例の祈祷の代理を命じられ、勤めました。 |
申候。同七年四月、往院道師、於妙解寺 | 同七年(1722)四月に、往院道師が妙解寺に於いて |
公義御法會之節、火廻被 仰付、相勤申候。同十七 | 公義による法会を行った折りに、火の元の管理を命じられ勤めました。同十七 |
年十二月、御留守居御番頭被 仰付、同二十年 | 年(1732)十二月、留守居番頭を命じられ、同二十年(1735) |
迄、相勤申候處、就不勝手、御役儀、御断申上候處 | 迄、勤務したが、勝手が違うので、役目を、お断り申し上げたところ |
一口メモ
氏家甚左衛門は、眞藤國雄氏の「新・肥後細川藩侍帳」によると、次の様に紹介されています。
5、甚左衛門・頼久(養子 実沢村大九郎友朗二男 勝五郎)
細川宣紀公御書出(正徳六年二月)三千石
細川宗孝公御書出(享保十九年十一月)三千石
細川重賢公御書出(寛延元年九月)三千石
宝永四年家督、着座、備頭、 寛延四年正月致仕 宝暦九年閏七月二十四日歿
二男・沢村家に入り六代宇右衛門友隼
また、上記に「阿蘇上宮」とありますが、これは阿蘇神社上宮の意味で、この阿蘇神社は古墳時代から2000年以上の歴史を持つ由緒ある官弊大社です。豊臣秀吉の九州統一後は、阿蘇神社宮司としての地位が,認められ、細川忠利公が肥後の領主として任ぜられてから、熊本藩の管理下に置かれ、公義定例の祈祷が行われる様になりました。
この先祖附によると、この定例の祈祷の名代を命じられたのは、当家五代の権右衛門政武が、享保5年(1720)9月の上宮(阿蘇山上神社)と、元文3年(1738年)5月の下宮の二回と、当家九代の数衛政久、が文化4年(1807)の上宮の一回です。当家五代は、家督を相続した年と、八代城の番頭として赴任する前年で、当家九代は、家督を相続した1年半後でそれぞれ拝命されています。
尚、天保6年(1835)から嘉永3年(1850)にかけて熊本藩は、阿蘇神社の6つの社殿群を寄進しました。