十代 高見権右衛門武棟 (13)
嘉寿 初久喜 母右同断 文政十年丁亥二月二十日出生 初力士内片山家(旧八幡力士前)ニ
嫁之離縁後志方半之尉妻
貴女 母右同断 文政十二年出生同十二年五月壱日病死 高麗門妙立寺葬
法名 夏月嬰族
數衛 母右同断 天保四年三月二十八日出生同八年十月十三日病死墓右同処
法名 蓮現瑞光童
熊之助 母右同断 (十一代当主)
天保九年九月十七日出生 後嶋之助与改
文久元年四月廿三家督父権右衛門ニ被下置候御知行九百五拾石家屋敷共ニ被下置
此着座被 仰付小笠原備前殿組ニ被差加小笠原一学次座被 仰付
妻長岡治部之丞姉 離縁 後妻松岡甚九郎娘 和喜後貞操院
与改
熊之助 娘 桃 早世 母妾
熊之助 早世 母長岡長岡治部之丞姉 法名 秋煙水子
千代 母 松岡甚九郎娘 和喜 浅山知定妻トナル
熊之助 弟 又熊 母右同断 天保十二年二月七日出生
直熊 (十二代当主)
母右同断 (十二代当主) 天保十四年六月二十八日生 嶋之助病氣ニ付養子ト奈留
後権右衛門と成維新改名まもる(古の下が心)と称す剃髪後祖厚与改 妻田中典儀娘 道
大正六年九月三十日午前二時四十五分長崎県南高来郡島原村魁之先塋ニ葬ル
妻道 明治四十五年十一月十日 於島原没 法名 真鏡院姉貞日禅大姉 高麗門妙立寺葬
志茂五郎
母右同断 早世 法名 篤峯英顔
乙五郎
母右同断 早世
一口メモ
十代 高見権右衛門武棟は、6男3女を授かったが、長男はわずか4年で他界し、次男の熊之助(後嶋之助)が当主となったが、病弱のため翌年には隠居してしまった。代わりに弟の四男直熊がその次男の養子となって、十二代当主を引き継いだ。このいざこざでそれぞれ50石の減俸となってしまった。
十代 権右衛門の足跡
以下に年ごとの事象を列挙します
元号 | 西暦 | 年齢 | 事象 |
文化 9年 | 1812 | 13歳 | 養子として御目見 |
文政12年 | 1829 | 30歳 | 8月 白金御近習御雇 9月國許出発 |
天保 4年 | 1833 | 34歳 | 4月 白金御側取次(同7年5月迄) |
天保6年 | 1835 | 36歳 | 10月 休息で帰国 11月江戸着、二日後に御尊骸を追い江戸発、12月1日大蔵谷駅にて合流。 12日熊本着。18日には南関まで出迎え、20日に熊本着。 |
天保12年 | 1841 | 42歳 | 2月 相続、三淵助次郎組 座席は朽木内匠の次席 4月 座席持懸で志水新之丞組の小姓頭 (権右衛門と改名) |
天保14年 | 1843 | 44歳 | 8月 當年上野火の番、 12月 参勤のお供 |
天保15年 | 1844 | 45歳 | 3月 江戸着、 6月 別段として御次締り御用詰込、 9月 帰国 |
弘化2年 | 1845 | 46歳 | 7月 若殿様のお供にて罷登 |
弘化3年 | 1846 | 47歳 | 閏5月 帰国 |
弘化4年 | 1847 | 48歳 | 2月 100石加増 都合千石、 3月 お供にて罷登 |
嘉永1年 | 1848 | 49歳 | 9月 帰国 |
嘉永2年 | 1849 | 50歳 | 2月 出府、 12月 勇姫様婚礼儀用懸 |
嘉永7年 | 1854 | 55歳 | 5月 出府 |
安政2年 | 1855 | 56歳 | 4月 御供にて帰国、 5月 座席持懸にて長谷川十之允組の番頭 10月 病気につき役ご免、座席今迄通り留守居大頭組 |
安政3年 | 1856 | 57歳 | 1月 座席持懸にて田中典儀跡 御小姓頭、 2月 出府 |
安政4年 | 1857 | 58歳 | 5月 お供にて帰国、 閏5月 座席持懸にて用人 |
安政5年 | 1858 | 59歳 | 2月 江戸向出発、 3月 江戸着 白金詰 |
安政6年 | 1859 | 60歳 | 1月 一橋御用懸 |
万延1年 | 1860 | 61歳 | 6月 帰国、 12月 お役御免にて座席は元の通り中着座、堀丹右衛門組 |
万延2年 | 1861 | 62歳 | 2月 病死 |
十一代 高見嶋之助 に続く