寒山詩偈讃歌 2
序
高見祖厚禅師は余が精神上再生の恩人なり。
疇昔(ちゅうせき=むかし)贅を禅師榻(とう=長椅子)下(とうか=足元)に執る者数多ありしと雖も、多くは世に隠れて道筋を守るの人なり。
偶々一時盛名を得たる近衛侯爵、佐々克堂氏の如き今は早や幽冥の境に入りて呼べども還らざるの人となり了んぬ。
只だ余独り僅かに腥き名(生臭き名)と薄黒き影とを娑婆の片端に持て余して呻吟し居るは至極面目なきことに属すと雖も、之は決して余の罪に非ず。
世の中の空気と云う厄介な物が有るに因りて、拠ろ(よりどころ)なく活きて居るに因りて余儀なく様々の悪戯をなす次第なり。
禅師の大慈は此の活き残りの余をも漏らさず尚教化の徳を垂れ給はんとにや。
茲に寒山拾得詩偈を書き抜き之に一々和歌を詠付して余に授け給へり。
余熱心之れを捧誦すると雖も資性の魯鈍(ろどん=愚かで頭の働きが鈍い)は会得に苦しみ、恰も壁を隔てヽ笙を聴き窓を閉ぢて月を見るが如く、チラホラホンノリと何か音あり光あるかを感ずるが如きのみ。
余今之れを刊行して知友に分つ所以のものは、更らに得逍会心の教へを先輩に聞かんと欲するが為めなり。
禅師は元と肥州の士、今庵を京都大徳寺内の高桐院に結べり。
皓潔無垢更らに心思を塵界に馳せずと雖も、慈悲は三界の有非を洩らさず、読者若し此の書によりて禅師教戒の妙機を知らば、或は余が禅師高徳の一端に酬ゆることに庶幾からん乎。
明治庚戌の晩秋 相州鎌倉大佛寺畔に於て 其日庵腐軒誌
一口メモ
高見祖厚禅師は、熊本藩十二代藩主の細川護久公が明治26年にお亡くなりになると、直ちに剃髪法衣となり、東京の白山龍雲院に閑居し、南隠老(南隠全寓老師)の弟子となり、法名を祖厚と改めました。翌年京都の大徳寺高桐院に自在庵なる庵を建立、以後二十年間にわたり三齊公を初め歴代藩主の菩提を弔う事になりました。
この間、和歌や書画等の文芸に親しみ、その一つとして「寒山詩偈讃歌」を完成しました。当時は数多くの著名人との交流を通じて人間性を高めていったことが窺えます。