九代 高見権右衛門武久 (15)
前文之通祝盤井より申達同十七日被下置候
但 十六日之権外御用ニ而奥御居間江罷出下り候節御直ニも
右御品可被下置と被遊御接へぎ候段でもいまだでけぬ
明日ハ屋の縁ニ成と被遊 御急候御居間末之御間御小
姓詰所ニ而御女中両人ニ而亥中仕立ニ相成居候事
浅黄縮緬雲菱之形御裏本日野絹紅色綿入御胴召一被下置候
天保ニ年十二月二十四日 澤村八郎左衛門休息中御用取扱候ニ付嶋縮緬一反
蓮性院様於 御前被下置候 天保三年二月十二日 諦観院様御病
中御世話申上其節七回 御忘被為當被 思召出候ニ付 少将様於
御前 黒琥珀御帯地一筋被下置候 天保三年六月二十七日兼々
出精相勤候旨被遊 御意米沢丈布緯カスリ御帷子一 仙臺平
菱御袴一具 少将様於 御前被下置候 天保三年七月五日
御内密御用致心配候旨ニ而
赤胴三疋半御三所物御祝之於御間 少将様御手自被下置候
前文の通り祝盤井から申達(しんたつ=文書によるお達し)が同17日下された。
但し、16日の権外の用事(私用)で居間を訪ねた折、すぐにでもこの品を戴けるように、接へぎ(接いだり剥いだり)されたが、未だにできていない。
明日は家屋の縁(へり=縁側)に急いで行こうと考えた。居間の末の間の(居間のはじにある)小姓の詰所で女中二人で亥中(がいちゅう=夜の10時頃)まで仕立て(の作業を)されていたとのこと。
浅黄縮緬(あさぎ色に染めたちりめん)雲菱の形(端雲を菱形に整えた紋)裏は本日野絹(滋賀県の日野町で産した薄地の生絹)紅色の綿が入っている胴召一つを頂戴した。
天保2年(1831)12月24日 澤村八郎左衛門が休息中にご用を取り扱うという事で嶋縮緬一反を蓮性院様の御前で戴いた。
天保3年(1832)2月12日 諦観院様が病気の間お世話を申し上げたがそのときに7回もお忘れになったり、思い出されたりされたので、少将様の御前で黒琥珀の帯地を一筋(一条)戴いた。
天保3年6月27日兼々仕事に励んだとのお考えにより、米沢丈布の緯カスリ(よこがすり=緯絣)の帷子(かたびら=生糸・麻で作ったひとえもの)を一つ、仙台平菱の袴一具(=ひとそろい)を少将様の御前で戴いた。
天保3年7月5日内密のご用について、心配りをしたので赤胴(金と銅の合金)三疋半(重さの単位)を使用した三所物(みところもの=小柄/こづか・笄/こうがい・目貫/めぬきの3つの総称で刀剣の装具)をお祝いとして、御間にて少将様から直接戴いた。
くずし字解読
左の画像は上記の6行目だが、分解すると「浅黄」雲菱之形」(あさぎ=薄い黄色)「縮緬」(ちりめん=縮ませた絹織物)「雲菱之形」(くもびしのかた=雲を菱形に文様化したもの)
「御裏」(おうら)「本日野絹」(ほんひのきぬ=滋賀県の日野町で産した薄地の生絹)「紅色」(べにいろ=紅花の濃染による鮮やかな赤色)
「綿入」(わたいれ=綿の入った着物)「御胴召一」(おどうめしひとつ=上着と下着の間の寒さをしのぐ着物・胴着を一つ)「被下置候」(くだしおかれそうろう=くださった)
左の画像は上記の最終行だが、分解すると「赤胴」(しゃくどう=銅に金・銀を加えた合金)、「三疋半」(さんびきはん=約0.156g)「御三所物」(おんみところもの)
「御祝之於御間」(おいわいこれおんまにて)
「少将様」(しょうしょうさま=熊本藩八代斉茲公・諦了院様)「御手自」(おんてみずから)
注)元禄時代の一分判は1.19匁(約4.5g)から算出した。(次頁にあるが三所物は元禄4年製)