九代 高見権右衛門武久 (16)

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1001

 但 秉真代金拾枚 笄桃有 小柄ゲン(きへんに元、異体字は芫)縄有裏哺金捍下地拙者

元禄四年九月七日        後藤 廉秉 判

 上色 赤銅三疋半證文   代金 拾枚

天保三年九月二十五日従 少将様御鉢植一鉢被下置旨田川遠以

御沙汰ニ相成被下置候

 但 万年青 みやこの志よふ一鉢 御鉢尾張焼菫波潦付大振

天保三年十二月十五日諸事主ニ成兼々心遠用出精相勤候ニ付

御紋附織線入御熨斗目一 三ツ桐御紋附縮御帷子一 表桜御紋附

縮緬袷御羽織一従 少将様被下置候

外ニ 八丈嶋御被風一 當春寒氣強砌二付 思召遠以棉厚遠被

仰付被下置との 御意二而 於御前被下置候

天保三年十二月二十一日 少将様江 太守様より御着上二相成候金子

之内 思召より以金子拾両御内々従 少将様被下置候

天保三年十二月二十三日明二十四日 梅珠院様七回御恵被為當候二付

但し、秉真(へいしん=包金)代金10枚 笄には桃(の絵)がある 小柄には玩縄(がんなわ=飾りの縄)がある。裏哺金(うらふくみきん=小柄と笄の裏面の下地を包み込むように薄い金の板を着せたもの)捍(かん=防ぐ)下地をまもったのは私。

元禄4年(1691)9月7日  後藤廉秉 判 上色(上等な)  赤銅三疋斗の証文   代金は10枚 

天保3年9月25日少将様より、鉢植一鉢を下さる旨田川をもって知らされ、それを戴いた。但し、 それは万年青(おもと)の都城という種類の一鉢で、鉢は尾張焼の菫波潦付(すみれ色の波しずく模様)の大振のもの。

天保3年12月15日万事は、いつもながら心からしっかりと仕事を勤めているので、紋附の織線入熨斗目(絹織物)を一つ、三ツ桐の紋附縮帷子(ちぢみ織で作った単衣もの)を一つ、 表桜の紋附縮緬袷(ちりめんあわせ)の羽織一つを少将様から戴いた。ほかに、八丈嶋の被風(ひふ=羽織に似た外衣)を一つ、 この春は寒気が強い砌(みぎり=時節)という思召しによって棉を厚くするようなご意向にもとづき御前にて戴いた。

天保3年12月21日 少将様へ太守様から差上げた金子(きんす=お金)のうち、思し召しによって金子拾両を内々に少将様から戴いた。

天保3年12月23日 明24日は梅珠院様の七回忌になるので、(嶋縮緬一反を少将様から戴いた。)

一口メモ

三所物

目貫とは、刀の柄の中央あたりの表裏に装着された小さな金具で、「目釘」(めくぎ)の頭につけられた装飾品。

笄桃有(こうがいももあり)
笄とは、髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具。ただし次第に結髪後に髪を飾るものに変化した。これに桃の絵が描いてある。

小柄芫縄有(こづかげんなわあり)
小柄とは、細工用の「小刀」で、本来は木を削る際や、緊急時の武器として使用。芫縄(げんなわ・異体字)とは、フジモドキで作られた縄のこと。

裏哺金(うらほきん)=後藤家他の金工作家による小柄笄などには、表の図柄を施した地板を別造りとし、それを乗せる台を哺金と呼ばれる板金で包み込み端部を鑞付けし、額縁状の構造としたものが多い。この覆い金の大半が金で作られているところから哺金あるいは裏板金哺と称されている。

掉下地拙者(かんしたじせっしゃ)=下地を加工したのは私である。

後藤廉秉

後藤廉乗が生まれた後藤本家は、室町時代~江戸時代にかけて御用達の彫金を家職としてきた一門で、足利、織田、豊臣、徳川の各将軍家の御用をつとめ、刀装具などの彫金作品を制作してきた。

江戸時代になってからは大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請け負っている。 室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖とし、後藤本家8代目をつとめた廉乗の父である即乗は廉乗が4歳の時にこの世を去ったため、すぐには家督を継ぐ事ができず、7代目を襲名した顕乗の長男の程乗が一時的に9代目を襲名し、後藤廉乗は後藤本家当主としての力量を得るまで、9代・程乗のもとで修行に励み、20歳の時に家督を相続し、後藤本家10代を襲名した。

後藤廉乗年表 1628年 生まれる。 1632年 父・即乗が亡くなる。 1648年 後藤本家10代を襲名する。 1662年 一門をあげて京都から江戸に移る。 1709年 逝去。