九代 高見権右衛門武久 (17)
嶋縮緬一反従 少将様被下置候 天保四年二月三日九越之祝
致候遠 少将様達 御聴目出度五十歳二被成下候との
御意二而貝細工御置物 梅羈彝一 金鶏蒔絵御盃光山一於
御前被下置候 天保四年三月七日 諦観院様御筆
少将様 太守様思召遠以被下置候 天保四年四月十四日御用
有之江戸瀧ノ口於 御殿當御役多年相勤厚心遠困萬事主二成
致出精候二付座席組外同列被 仰付旨志水孫七郎方被申渡候
同年同月同日白金於御用人間浅口権之助より高見嶋之助江申渡候輒
左之通
嶋之助儀白金御近習御雇被 仰付置候処被遊 御免白金
御側御取次之場二而御雇被 仰付之
同年同月同日浅口権之助より通達右之通
権衛門養子 高見嶋之助
嶋縮緬一反を少将様から戴いた。
天保4年(1833)2月3日九越の祝(49歳を無事に終わったお祝い)をするということで、少将様達は、(九代権右衛門が)目出たくも50歳になったとのご意向で、貝細工の置物 梅の羈彜(きい=馬に使うくつわの紐の祭器)を一つ、金鶏(きんけい=キジ科の中国の鳥)の蒔絵(まきえ=漆器の表面につけられた絵模様)の盃 光山作を一つ御前で戴いた。
天保4年3月7日 (亡き)諦観院様のお筆(=筆による作品)を少将様と太守様(=十代藩主細川斉護公)の思し召しによって頂戴した。天保4年4月14日用事があって江戸瀧ノ口(上屋敷)に参上したところ、殿はまさに(私の)仕事の役割が多年に亘って難事が多くあったにも関わらず、仕事に良く励んだので座席を組外同列(仕事の役割はないが身分は保証する)に仰せ付ける旨志水孫七郎を通じて申し渡された。
同年同月同日白金(中屋敷)の用人の間に於いて浅口権之助より高見嶋之助(高見家十代)へ申し渡された。すなわち
左(次)の通り
嶋之助は白金中屋敷の近習に雇われることを仰せ付けられていたところご免となり、白金中屋敷のお側の取り次ぎの場に雇われることを仰せ付けられた。同年同月同日浅口権之助からの通達は右(以上)の通り
権衛門養子 高見嶋之助
一口メモ
相続について
江戸時代では、先代の死亡に伴う相続を跡目相続、隠居による場合の相続を家督相続というが、今回の高見家九代は50歳になり、座席は組外同列で、これまでの役職である佐敷と同様な身分保障を得たことになるが、同時に十代は34歳で中屋敷に於いて御側取次に昇進している。年が近かったせいもあろうが、二人そろってお側につくことになる。九代はその後亡き諦了院様(熊本藩八代斉茲公)の御尊骸のお供で熊本に行き、江戸に戻ってから足高の100石を領知として加増、都合千石になった。後に留守居大頭同列となり、若殿様のお守り役を仰せつけられ、さらに足高500石を賜り、大いに期待された。しかしながら、残念なことに乗馬中急病のために落馬して逝去してしまった。享年56歳であった。
翌年、10代が跡目相続御をし、24年間勤め万延2年(1861)2月に病死した。享年62歳であった。