九代 高見権右衛門武久 (18)
右志白金御側御取次之場ニ而御雇被 仰付候ニ付而者今日
及達候通ニ以権右衛門儀今度進席被 仰付候而者嶋之助儀
着座ニ相成候事二付御雇ニハ不被 召仕置ニ候得共格別
之 思召遠以直ニ御社頭之場ニ而御雇被 仰付事ニ候
去御役前之変ハ大組附之振合ニ而被 召仕旨候間右之
趣権右衛門江可被申渡候
天保四年七月九日 兼々出精相勤候ニ付 葉桜御紋附柿色晒御帷子一
奈良地御帷子下一於 御前被下置候 天保四年八月二十七日 兼々出精
諸事主二成申續四ヶ年詰より茂致殊更御人少之處出精相勤此節致出
立候二付 思召遠以五三桐御紋附袷御継上下一具 木綿形付袷御羽織一
従 少将様被下置候 天保四年八月二十七日 兼々出精相勤此節四ヶ年續より茂
致候二付 葉桜御紋附縮緬単御羽織一従 太守様被下置候
天保四年八月二十七日 少将様 思召遠以奥御居間於 御前九曜御紋附
羽二重御小袖一妻ミち江被下置旨御老女田川より申達候 但御裏紅
右の白金中屋敷のお側取次の場にて仕事を行うよう仰せ付けられた目的については、今日お達しがあった通り、権右衛門がこの度昇進を仰せ付つけられ、嶋之助が着座することについては、お雇いにはそぐわない処置といえども、格別な思し召しによって、直ちに社頭の場(社殿の前)にてお雇いを仰せ付けられることになった。
これまでの役目との違いは大組附の振合(都合)によって召し仕われる旨であるので、このありようは権右衛へ申し渡しておくべきである。
天保4年7月9日 兼々精を出して勤めたので 葉桜の紋付柿色の晒(さらし)帷子(かたびら=夏の麻製衣服)を一つ、奈良地(奈良産のさらし)の帷子下(ズボンか?)を一つ、御前で戴いた。
天保4年8月27日 兼々万事に於いて4年もの間仕事に励み、その間ことさら人数も少ないこの時に出発するので思し召しによって、五三の桐の紋付の袷(あわせ=裏のあるきもの)継上下(つぎかみしも=礼服)を一組、木綿形付袷羽織を一つ、太守様から戴いた。
天保4年8月27日 少将様の思し召しで奥の居間にて、御前が九曜の紋付羽二重の小袖一つを妻のみちへ下さる旨の申達(しんたつ=文書による指令)がご老女の田川よりあった。但し裏地は紅。
一口メモ
朱書きについて
当系図には朱書されている部分が、この項を含めて二カ所存在するが、いずれも個人的な感情や意思が表現されている。
この点から判別できることだが、系図とは公的な書類であって朱書の私的な部分と区別されているようだ。
紋付の御紋について
紋付きとは家紋の入った着物のことで、九代の武久が賜った紋付については、随所に記載があるが、その家紋を分類した結果は次の通りであった。
「九曜」27回、ただの御紋附:15回、「五三桐」11回、「葉桜」8回、「表桜」8回、「八重桜」5回、「松蓋菱」5回、「ソウ(さんずいに宗)泉桜」4回、「表葵」4回、「桜」2回、「桜菱」2回。
このうち、細川家が採用した家紋を古い順に並べると次の通りとなる。
「松蓋菱」と「桜」は室町幕府の管僚細川頼之(1329-1392年)が用いて以来の家紋。
「桐」は 細川藤孝公が足利義昭から拝領したもの。
「松笠菱」と「桜」は先祖の右馬頭頼有の兄頼之が用いて以来のものという。
「九曜」は忠興公が織田信長の小柄に付いていた九曜紋を見て自分の衣服に使用したいと願い出たところ、定紋にするよう許しを得て使用するようになった比較的新しい家紋であるが、細川家六代当主宗孝公が切りつけられる事件の後に周囲の星を小さくした離れ九曜のデザインに変更されている。
細川家の家紋については、「家紋World」に詳しく解説されている。