豊後街道を辿る その17

内牧城本丸跡・御茶屋跡から、寄り道をして阿蘇神社に行くために県道110号を東に進むと、途中に「阿蘇役犬原(やくいんばる)湧水群」に出会いました。ここは、阿蘇谷湧泉群ジオサイトの一つです。中画面は、中央に大きな水柱が形成され、手前は大きなパイプから地元の人が水汲みをしていました。右画面は、男女のカッパとマーライオンの滑稽な石像です。

ここは、阿蘇のカルデラ内の火山群(中央火口丘群)の北東の裾野にありますが、この一帯は、いたる所に地下水が地表より高くまで湧き上がる、いわゆる自噴水があります。自噴水の高さは最大2m程にもおよび、地元では古くから生活用水や農業用水として利用されています。

十一里木之跡(左画面)と、十二里木(右画面)の標識は、いずれも畑の中を通る県道110号沿いにあるようですが、訪問当時は見落としてしまいました。画像は、いずれも「道の駅阿蘇」さんのホームページから転用させていただきました。

阿蘇神社は、2000年以上の歴史を有する古社で、古来より阿蘇山火口をご神体とする火山信仰と融合し、肥後国一の宮として崇敬をあつめてきました。
 宮司職を世襲する阿蘇氏は、中世には武士化して肥後国を代表する豪族に成長しました。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の九州平定の際には社領を没収されましたが、その後改めて天正15年(1587年)に300町の社地が寄進され、さらに、領主となった加藤清正、熊本藩主として入国した細川氏によって、社領の寄進、社殿の造修が行われました。当家五代の権右衛門政武は享保5年(1720)に阿蘇上宮にて細川藩公義定例の御祈祷の御名代を勤め、更に文化4年(1807)には、当家九代の数衛政久が同様の御名代を勤めたと言う記録が残されています。
 阿蘇神社の社殿群は、天保6年(1835)から嘉永3年(1850)にかけて、熊本藩の寄進によって造営されたもので、このように阿蘇神社と細川藩は極めて近い関係にありました。

平成28年4月16日未明に発生した熊本地震により、境内の社殿のほぼすべてが甚大な被害を受けましたが、訪問当時の令和5年9月時点では、復旧工事も進み、訪問当時は、重要文化財の桜門(左画面)を残すのみでした。中画面は、拝殿で右画面はその参拝風景です。拝殿の先には、一の神殿二の神殿三の神殿、昭和天皇御手植松があります。

左画面は、三の神殿の遠景です。中画面はせのび石(背が伸びるよう祈願する石)、右画面は願かけ石です。この「願かけ石」の由来は、次のように説明されています。

願かけ石の由来
往時(二千年前)当神社の祭神、阿蘇大明神がもろもろの願いをこめて、祖神の霊に額づかれたという。これは当時の「霊場の岩石」の一部といわれ古来(昔)より神石として伝承保存されてきた。 南北朝の時代より、祈願成就の神石として独自の信仰を得てきたが、室町(600年前)の頃より、神霊を更に具現して、その恩恵にあやからんものと人々この神石に手をふれて願い事を口々に唱えたという。すなわち「願かけ石」の起こった所以(ゆえん)である。
 * なお祈念にあたっては先ず心に願いごとを念じこの神石を撫でること三度、更に願いごとを唱えるべしとある。

また、参道の両端には南北の鳥居がありますが、この参道に沿って、北門守社(左画面)と、南門社(中画面)がありました。左画面は桜門の遠景で、周囲には工事用の隔壁と、工事の説明パネルが設けられていました。

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