豊後街道を辿る その16

豊後街道は、九里木跡から歴史の道に入り、男亀石・女亀石を経て湯浦川を渡り、350m程で上記の十里木址の標識があり、ここが豊後街道筋であることが確認できました。

十里木址から600m程東へ進むと、阿蘇市阿蘇体育館が見えてきます。この一帯が内牧城本丸跡で、その後に構築された内牧御茶屋の跡があったそうです。中央の案内板には次の記述がありました。

史跡 内牧城本丸跡・内牧御茶屋跡

 内牧城は天文年間(1532~1555)の頃に築城されたと伝えられ、天正14年(1586)の薩摩の島津氏による阿蘇侵攻で落城と伝えられています。  その後、豊臣秀吉の天下統一で加藤清正が肥後に入国し、家臣の加藤右馬丞可重を初代とした城代3人が赴任しました。江戸幕府が成立すると、元和元年(1615)に一国一城令が出されて内牧城は廃城となりました。浄信寺の山門と明行寺の門は、廃城の祭に城門の一部を移したものと伝えられています。  内牧城は古川と黒川を水濠とした典型的な平城で、内牧の町内には「本丸」「二の丸」「三の丸」の小字が残っており、ここは「本丸」にあたります。  加藤家にかわり肥後藩主となった細川家は、本丸跡に参勤交代で宿泊するための内牧御茶屋を設置しました。  維新後の明治2年(1869)には手永会所も御茶屋に移されましたが、2年後には廃藩置県が実施され、細川藩の施設としての役割を終えました。  本通り(参勤交代道)は現在の県道で、それに面して大門があり、その奥に大杉と本門がありました。大門と本門の間の左右に石垣と桧が続き、藩主一行宿泊の祭は、門前の通りは通行が禁止されたといいます。 平成6~7年には内牧中央線の改良工事に伴う発掘調査が行われ、内牧城の頃と思われる施設の跡が見つかりました。御茶屋の痕跡はほとんどなく、開発によって消滅したと考えられます。

左の案内板には、次の内容が書かれていました。

勝 海舟、坂本龍馬の歩いた豊後街道

1864年に坂本龍馬などをつれて佐賀関に上陸し、長崎へと旅しました。 その道中に、ここ内牧へ立ち寄り、勝海舟が左の日記を遺しています。  勝海舟日記のくだり(略)  文久4年2月19日 山上より阿蘇獄を見る。この嶽に並び立たる高峰あり。猫が嶽と云う。  人跡至らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。 妙義山に比すれば、更に一層の奇峯なり。  内牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。 また、人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。 内牧より二里、的石村あり。爰に(ここに)領主小休の亭あり。質素、庭は山泉一面に流る。夏に宜し。北に北山あり、南に阿蘇あり。 阿蘇の脚甚だ広く、田野あり。  元治元年4月7日 帰路出立、内の牧に宿す。

こちらが、内牧城本丸跡の北側にある古川水濠です。

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