豊後街道を辿る その14

二重峠坂下の駐車場から平坦な道を北東に700m程進むと街道の左側に「めぐすり石」があります。この標柱には、次のようなことが書かれていました。

この石は阿蘇の四十八石に数えられ、裂け目から水が湧き出てくるという不思議な石です。伝説によると、その水は目の病に効くと伝えられてきたことから、めぐすり石とよばれています。

上記の「阿蘇の四十八石」には、この「めぐすり石」の他に、「夫婦亀石」などが見つかりましたが、全容は不明です。

いよいよ阿蘇市的石に入りました。この「めぐすり石」から更に250m程進むと、右側に小さな道があり、その奥に「歴史の道 豊後街道 八里木の址(伝)と書かれた標柱がありますが、見落としてしまいました。

八里木址から街道を1km程進むと、左手に隼鷹天満宮の鳥居(左画面)があります。この先は真っ直ぐな参道が続きますが(中画面)、その突き当たりが隼鷹(はやたか)天満宮の社(右画面)です。近くの説明板には次の様な記述がありました。

隼鷹天満宮
 肥後藩主細川綱利公(1661~1712)が参勤交代のため船で東上の折、海上で天候が悪化し、激しい波に船が呑まれようとした時、一羽の白鷹がどこからともなく船柱に飛んできました。すると怒濤はたちまち静穏となり、つつがなく渡航を終わって無事上陸することができました。藩主はその夜旅宿で、霊鷹は的石天満宮の権化との神諭を夢見、その霊験あらたかなるに感じ、京都で社殿の建立を命ぜられました。
 享保元年(1716)12月に国主が奉納された絵馬や、天保13年(1842)12月に細川斉護公が奉納された鶴の額が神殿に収蔵されています。

この参道の中程を右折すると、的石の御茶屋跡の庭園(中画面)が、参道の反対側に御茶屋(小糸家住居)と御茶屋泉水(右画面)があります。左画面には次のような説明がありました。

的石御茶屋跡(史蹟)

この御茶屋跡は、肥後藩主が参勤交代に使った豊後街道の通過地点で、大津をたった殿様一行が、二重の峠をこえ、石畳の坂道を降りてきて休息昼食をとったところである。屋敷内は、今も当時の面影をしのばせ代々御茶屋番をつとめた小糸家は現当主で、13代目である。

屋敷内には、北外輪山からの伏流水で泉水が形づくられ、「御茶屋泉水」として、くまもと名水百選に選ばれている。

また、別の説明板には次の様に書かれていました。

参勤交代と的石御茶屋跡
豊後街道は、江戸時代の参勤交代時に江戸へ行く最短のコースとして整備された重要な街道でありました。熊本城を出発し、大津で第一夜を明かされた藩主の一行は、高尾野、新小屋などを経て二重の峠で休息したのち、石畳の坂道を下り的石御茶屋で昼食をとられ、次の宿泊地である内牧を目指されました。
的石御茶屋は、元禄10年2月に小糸次右衛門忠常の屋敷を御茶屋と定め、改築の上御茶屋番に任じられ、その後代々御茶屋番を勤めましたが、明治5年の廃藩置県により御茶屋を廃止され、そのまま小糸家の住居となり、現代に及んでいます。細川藩の参勤交代のための大津、内牧、坂梨などの御茶屋跡は、既に昔を語るものはほとんどなくなり、的石御茶屋跡だけが、昔日の面影を残しています。

また、この参道の近くの庭には、コウヤマキの大木がありますが、これは幹周約3.1m樹高約35m、推定樹齢約300年の巨木で、細川綱利公お手植えと伝えられ、町指定天然記念物に指定されているとのことです。

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