豊後街道を辿る その12

堀谷の豊後街道からミルクロード(県道339号)に入り、こを進むと、途中の道路脇の斜面に手作りのほこらがありました(左画像)。更に進むと、ミルクロードは県道23号線と交差します(中画像)。いよいよ外輪山の頂上近く(標高637m)に差し掛かります。阿蘇山は過去4回の大規模な噴火があったと考えられていますが、最初の27~29万年前の巨大噴火でカルデラが形成されました。その外輪山とカルデラの中を結ぶ標高差220m、長さ1.6km、幅3mの二重峠(ふたえのとうげ)に、この石畳が構築されたと言うわけです。

また、ここには「西南之役戦跡」の記念碑があります。この辺りは扇谷(おおぎだに)激戦地と言われ、明治10年に西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱(西南戦争)の戦場跡の一つです。

この交差点から1kmほど進むと、右手に二重峠石畳の駐車場があります(左画面)。ここに車を停めて石畳(右画面)に向かいます。中央の看板(中画面)には、次のような説明書きがありました。

江戸時代の参勤交代で使われた石畳の道

江戸時代(1603年~1868年)、幕府は、諸大名を江戸と国元に一定期間ずつ交代で居住させていました。この道は、大名や侍がそんお往復に使った道です。江戸時代には、30回以上の阿蘇の噴火が記録されており、参勤交代の際にも、この石畳から大名や侍が噴火を眺めたことでしょう。

何故、石畳なのか

この看板が設置されている場所(石畳の入り口)は、実は27-9万年前の巨大噴火でできた陥没跡(カルデラ)の縁にあります。そしてこの陥没でできた壁を人々は下っているのです。その後の火山灰の影響もあり、阿蘇の道は降雨のたびに道路が損傷してしまいます。そのため、石を敷き詰め、災害に強い道路づくりが行われたのです。

石畳を下るとすぐに視界が開け、阿蘇五岳が見えてきました。あいにく曇天のため中岳の頂上が若干雲に覆われていましたが、素晴らしい眺望でした。石畳は急角度で右折したり(中画面)、急坂を下って行ったり(右画面)と、険しい道が続きます。

しばらくすると、二つの案内板に出くわします。左画面には、次のような説明があります。

石畳の文字石「岩坂村つくり」

江戸時代、二重の峠石畳の道普請(修繕)は、公役(くやく)として手永単位で農民に課せられました。

岩坂村は、現在の熊本県菊池郡大津町にあった村で、当時は布田手永に属しており、この二重峠からおよそ3里(約12km)の場所に位置します。この文字石があることから、この周辺が岩坂村に割り当てられた区間と推測されます。

令和二年十月十日 阿蘇市教育委員会

この看板の一番手前の敷石に書かれていたようですが、気が付きませんでした。また、中画面には次の説明がありました。

牛王(ごおう)の水

江戸時代に編纂された「肥後國誌」によれば、牛王の水という小湧水の記載があり、一説には当時この近辺に乙護法(おとごほう)の祠(ほこら)があったことから護法の水と呼ばれたとされます。乙護法は修験者の間で篤(あつ)く信仰され、阿蘇地域では護法天童とも称されました。

令和二年十月十日 阿蘇市教育委員会

この涌き水の付近には、右画面のように、石で出来た祠と三体の童子姿の石像がありました。左右に地蔵菩薩が、中央の祠の中には、乙護法(おとごほう)と言って仏法を守るために姿を現す童子姿の鬼神だそうです。ここで引き返して、車で二重峠坂下に向かいます。

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