豊後街道を辿る その10

上井出公園から上井手川を左に見て、豊後街道(大津街道)沿いに東に500mほど進むと、御高札場跡に至ります。豊後街道はここを北に方向転換します。街道沿いには、大津手永会所跡、大津御茶屋跡、大津御蔵跡、五里木跡と重要な史跡が続き、当時の賑わいが忍ばれます。

この御高札場跡について、大津町役場のホームページでは次の様な説明がありました。

 手永会所や御蔵(おくら)のあった上大津と塘町筋の境にあたる、今の鶴口橋のそばが人々の行き来の中心となっていました。手永会所では、藩や幕府の決まりや命令を人々に伝えるための「おふれ書」を作り、その文章を書いた立て札(高札:こうさつ)をこの橋の北側に置き、ここを高札場としました。高札は年中掲示されており、中には、家・着物・見せ物・身分などについて暮しの中の様々細かいことにもきびしく及んでおり、絶対に従わなければなりませんでした。

  郷土誌『大津史』によると、毎年2月~3月に手永会所の広場で行われたキリスト教禁止の行事である「影踏(かげふみ)」の時に、大津手永の東西南北の地域から住民が集まりました。影踏の「踏み絵」を踏み終わった人々は、上大津から塔ノ迫までの見せ物や芝居を見たり、露店での買い物をしたりして、この周辺では10日間は大変賑わいました。大津の宿場の町並みでは、この時期で1年のうち半分のもうけがあったといわれるほどでした。

 今では、「鶴口地蔵」が橋の上を行き交う自動車と、橋の下をくぐる上井手の流れを見守っています。

大津町役場

こちらも、大津町役場ホームページからの引用です。

 江戸時代の豊後街道往来の折、藩主が宿泊・休憩する施設でした。普通には「本陣」と呼ばれるもので、「御茶屋」とは細川藩独自の名称です。手永会所に隣接していました。構内に御茶屋番宅があり、当番の役人が常時管理に当たっていました。

 瓦葺の堂々たる建物で、330坪の敷地内に本屋174坪、別棟75坪部屋数は29あり、其の偉容を誇っていました。道路に面し御門があり、構内には馬舎、番所、詰所、道具蔵などがあり、平素はお茶屋番と言われる役人が近村の人々に公役を割り当て管理していました。

大津町役場

こちらも、大津町役場ホームページからの引用です。

 江戸時代、大津手永の全域、竹迫手永の一部、及び阿蘇郡全部からの上納年貫米を格納する細川藩の年貢の倉庫です。

 この様な「御蔵」は大津の他、川尻・高瀬などに建てられていました。大小二棟の御蔵の一棟は幅10間、長さ96間あり、二棟に蔵入れする年貢米は毎年7万石、16万俵にのぼったといわれています。

 旧10月末より11月中にかけて農民が年貢を納める「御蔵払」の期間は、上大津より仲町にかけて人馬雑踏の賑わいを呈しました。御蔵前の住民のほとんどがこの御蔵に関連した生計を営む者で、上大津のまち並みができていました。

大津町役場

こちらも、大津町役場ホームページからの引用です。

 豊後街道には、熊本城から一里毎に里程を示す木が植えられています。その五里を示す木が、上大津の桜山にありました。この桜山の「五里木」一帯は、街道筋室附近の「八丁桜馬場」の桜の木を育成したところで、花見の場所もなっていました。

 また、藩主参勤の折、大津の人々が行列を出迎える「殿様拝み」の場所は、この地より東側と定めてありました。四里木は菊陽町南方、六里木は新小屋、七里木は古城峠にあります。

大津町役場

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