豊後街道を辿る その9

大願寺東の県道172号に繋がる道を北上し、中原橋(左画面)を渡ると、右側すぐに上井出公園があります。ここには、大きな水車が展示されていました(右画面)。案内板には次の説明書がありました。

水車の歴史
「コットン、コットン」と音をたてながら静かに回る水車。
阿蘇の外輪山から流れ出す豊かな伏流水が潤す大津町は、加藤清正の時代から細川時代初期にかけて完成した上井出(うわいで)や下井出(したいで)のおかげで、1,300町歩に及ぶ一大穀倉地帯となりました。
水車は精米、精麦、製粉、製材、製油などの動力として働くほか、水田に水を引くための揚水車としても利用されました。大津銘菓「銅銭糖」は、もち米を水車で粉にして作ったお菓子として、明治の初めのころから今日まで伝わっています。
ここ大津町では、大正末期には70ヶ所にものぼる水車があったと言われています。

上井出公園には、苦竹年禰神社がありました(左画面)。以下は、右画面の説明板の内容です。

苦竹年禰神社(にがたけ、としね、じんじゃ)
室町初期、鍛冶村(今の陣内、鍛冶地区)の草分け、刀鍛冶、延寿源左衛門が阿蘇三の宮末社を勧請し、天正の頃までは、この宮を中心として鍛冶村の西に隣接した苦竹という村落(今の新地区)がありました。
当社は元、苦竹村・鍛冶村の氏神として祀ってありました。
 加藤忠広公は江戸初期、上井出開削にに伴い、一大宿場町を作るべく塘町(とうまち)筋(大津と塔迫の中間)形成のため、若竹の村民を若竹町(今の室)に移住させました。そして、住民を新住地に落ち着かせるために苦竹年禰神社も寛永八年(1631年)上井出の北岸に遷宮しました。
 このようにして、上井出に沿った町並みが出来ていったといわれ、大津宿場町の元となる塘町筋形成の歴史を物語っています。
なお、この神社には全国でも珍しい水神様としての鯰(なまず)の石絵馬が奉納され、現在は大津町歴史文化伝承館に展示されています。

 ◎ 昭和38年(1963年)に公民館建設のため神社は北側に移されました。
 ◎ 平成17年(2005年)12月18日、不審火により拝殿を焼失しました。
 ◎ 平成24年(2012年)12月19日、町道駅前楽善線の施設に伴い、上井出北側の元の場所に再建されました。
   ○ 現在の氏子は新地区と室地区におられます。
  
   苦竹年禰神社氏子一同  平成28年3月23日

上井出公園から中原橋を渡り、豊後街道(大津街道)に戻ると、その南東角に上記左画面のような大津手永会議所の客屋門跡の説明板がありました。右画面は、移設された大津手永会所跡です。以下は、大津町ホームページより引用しました。

旧大津手永(管内51ヶ村)の政治・経済・軍事などを司る細川藩の役所が置かれていました。手永とは「領主が手いっぱいに治め得る区域」という意味で細川藩独特の地方行政区画で、大津手永は現在の大津・菊陽・旭志の3町村をほぼ合わせたぐらいの区域のことです。

 ここには、行政・子弟教育・裁判・医療などの施設があり、郡代、惣庄屋のほか、年貢取立てや犯罪取蹄りなどの諸役人が勤務していました。

 隣接して北側には御茶屋(所謂本陣)がある他、内外に3箇所の御客屋などもあり、往来する各藩の高官が宿泊・休憩しました。大津宿の官庁街であります。

 もっと北へ登った上大津には、御蔵跡があり、往時は阿蘇郡全部、菊池郡南半の年貢が集まりました。

大津町ホームページ

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