豊後街道を辿る その8
四里木跡
熊本県菊池郡菊陽町原水の県道337号の北側に、四里木跡がありました。ここには、次の様な記述がありました。
四里木跡は、熊本城(札の辻)を起点とした豊後街道上約十六キロの地点にあり、以前は榎塚もあったが、大正三年鉄道敷設のために伐採され、今はその地名ものこっていない。
平成十年三月 菊陽町教育委員会
ここから1.3km東に行くと、いよいよ大津町に入ります。大津宿は参勤交代では、熊本から最初の宿泊地として大いに栄えたようです。
大願寺
豊後街道は豊肥本線を渡り、県道30号に入ります。600m程先で北上すると上井手(うわいで)川に突き当たり、川沿いに東北に行くと大願寺に辿り着きます。左の写真が上井手川で、加藤清正公は、阿蘇山を源としてこの地を東西に貫流する白川に「瀬田堰」を設け、「下井手」(農業用水路)の整備を行いました。その後、細川氏により整備された「上井手」とあわせて、大津町域は1300町歩に及ぶ一大穀倉地帯となった重要な用水路で、現在も豊かな水量を誇っています。
この上井手川には立派な石橋「大願寺眼鏡橋」が築かれ(中画面)、対岸に大願寺(右画面)が鎮座します。以下は、大津町役場からの引用です。
肥後の国藩主、加藤清正は、慶長6年(1601)から当地に、宿場町を敷設するに当たり、苦竹の人家を移住させ、また塔ノ迫を西に拡張するため、白川筋からの農家移住を奨励しましたが、移住民を安堵させる社会的緊急措置として檀那寺を創建するにありと、寺院建立に着手しました。 かくして、慶長16年(1611)釈浄誓により、浄土真宗本願寺派末寺大願寺の開基となりました。 尚、開基浄誓は、山鹿郡長坂の城主星子美濃守の末葉星子義武剃髪し、浄誓と号します。 当山には、慶長16年(1611)12月12日付の本願寺第12世門主、准如上人より大願寺釈浄誓に対する小巻物の免状が現存します。 明治10年(1877)に西郷隆盛を中心にした西南戦争は、熊本県が主戦場になった、日本国内における最後で最大の戦いでした。 薩軍は司令部を塔ノ迫(室町)大願寺におき、東は高尾野から西は鉄砲小路(菊陽町)まで、大津の台地上に守りの陣地を帯状に作りました。そのため、官軍は兵隊を進めることがなかなかできませんでした。
大津町ホームページ