豊後街道を辿る その6

道標には「二里木里数木」とありますが、龍田7丁目にある、この里数木は、豊後街道の一部であった大津街道では里数木として生き残っているただ1本の貴重な木であり、先代の枯死したと思われたエノキが芽を吹き出し、隆々と緑の葉を繁らせています(中央の木)。

左の説明書きには、熊本城から、一里木跡記念碑、二里木、三里木跡石碑、四里木跡石碑、五里木跡石碑、六里木跡石碑、七里木跡石碑が写真入りで紹介されています。

里数木についての説明書がありました。

江戸時代の各地の街道に1里ごとに街道の両側に塚が築かれ、それで距離を表示しました。その塚に目印として植えられたエノキなどの樹木を里数木といいます。熊本の里数木の起点はすべて新町一丁目御門前(現在の熊本城清爽園内)の「札の辻」です。大津街道の「一里木」は、熊本市黒髪5丁目の一里木バス停の横で、道の両側に2本のエノキがありました。しかし、昭和33年の南の木、47年の北の木が枯れて、今は記念碑だけが立っています。

「二里木」は、竜田小学校の東250mの地点にありました。北側の木は軽便鉄道の工事で明治末年に伐採され、今は南側の一本だけです。これが大津街道に生き残っている、ただ1本の里数木です。

豊後街道(県道337号線)を500m程北上すると、右側に武蔵塚公園があります。ここには宮本武蔵の立像と墓が安置されています。宮本武蔵についての説明板では次のように紹介されています。

  宮本武蔵

武蔵は天正12年(1584)播磨国(現兵庫県揖保郡太子町宮本)に生まれた。幼名を弁助と云い、後に武蔵と改め、また晩年には二天道楽とも号した。大小二刀を用いる二天一流を創始して後世剣聖と仰がれた兵法者である。13歳のときから28,9歳のときまで諸国を歴遊し、六十余回も勝負したが一度も敗れなかったという。吉岡一門との戦いや、佐々木小次郎との試合は特に有名である。寛永17年(1640)武蔵57歳のとき、細川忠利公に客分として招かれ軍事政治の顧問として仕えた。翌年、忠利公の命で武道の奥義に関する「兵法三十五箇條」を上書した。 また、武蔵は武術だけではなく、茶、禅、書画三昧の日々を送り文人としても名高く水墨画など名品を残している。 忠利公没後、金峰山西麓の霊巌洞にこもり、五輪の書を著した。この他、武蔵が臨終の七日前にしたためたものに「独行道」がある。正保2年(1645)5月19日、武蔵62歳にして熊本千葉城の自宅で没した。 武蔵は生前の遺言によって主君の参勤交代を見守るため、甲冑を帯し六具に身を固め立見の姿でこの地に葬られたと伝えられている。 また一説には、天正10年(1582)美作国(現岡山県英田郡大原町宮本)に生まれたとも云われている。

豊後街道を辿る その6” に対して3件のコメントがあります。

  1. 武田智孝 より:

    兵庫県揖保郡太子町は小生の故郷山崎町と姫路の間、やや姫路寄りに位置します。バスで何度も通ったことがありますが、武蔵の生まれ故郷とは知りませんでした。
    もし美作(みまさか)だとすると、広島と山崎町と間で、ここも何度か車で通ったことがあります。

    1. 高見洋三 より:

      武田智孝様
      コメントありがとうございました。
      貴殿は山崎町出身だったのですね。姫路と言えば、当家初代の母方の実家が多可郡八千代町近くの荒田の城主ということのようですが、随分と近くのようですね。荒田城は確認できていませんが何かご存じありませんか?多可郡多可町に野間山城址があるようです。また、丹波市には、高見山城があったり、近くには城跡が沢山あるようでよく判りません。

  2. 武田智孝 より:

    「多可郡八千代町」というのはまったく知りませんでした。「多可郡」も「八千代町」も初めて聞く名前。地図で見るとそんなに遠く離れているわけではないのに。
    ちなみに「宍粟市」はかつて「宍粟郡」、兵庫県のチベットと呼ばれるほど山また山が連なるド田舎、それが今や「市」!?ですから、ちょっと狐につままれたみたいな感じです。

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