豊後街道を辿る その4
加藤神社
埋門跡の豊後街道から寄り道をして南下、加藤神社にお参りをしました。
【由緒】
神仏分離により明治4年、浄池廟・本妙寺から神社を分け、熊本城内に社殿を造営して錦山神社(にしきやまじんじゃ)としました。場所は大天守、小天守、宇土櫓に囲まれた平左衛門丸です。同7年、熊本城内に熊本鎮台が置かれるのに伴い、城外の京町一丁目に、ご神体を移して、同10年2月、西南戦争により社殿を焼失し(神体は健軍神社に避難していました)、明治17年に再建しました。明治42年(1909年)に、錦山神社から加藤神社に改称されました。
境内には文録の役記念の太鼓橋や熊本肥後三大手水鉢、清正公の旗立石、清正公お手植の銀杏の木などの遺跡があります。
熊本城天守閣を望む
このすぐ近くには、天守閣を望む絶好の景観地がありました。この天守閣は熊本地震から5年後の2021年に復旧されされました。
内坪井町
熊本城内から抜け出し、県道303号を北上、京町1丁目を東へ進むと、「壺渓塾」と「夏目漱石内坪井旧居」がありました。壺溪塾(こけいじゅく)は、昭和5年(1930)に日本でニ番目に木庭徳治によって創立された大学予備校で、ここが本校ですが、水前寺にも校舎があります。
夏目漱石坪井旧居は、漱石が旧制五高(熊本大学)の英語教師として熊本に赴任し、英国留学するまでの4年3ヶ月を熊本で過ごしましたが、この間6回も転居し、ここが一番長い1年8ヶ月をここで過ごしたと言われています。
桜井通り武家屋敷跡
この桜井通りは道幅4.5mの東向きの一方通行ですが、国道3号線角から西100mまでが当家の武家屋敷跡だったようです。ここから西に進み、坪井川を左折してすぐの厩橋(うまやばし)を渡ると熊本城に入れます。距離にして1km以内、時間にして15分以内で到着出来たようです。
興味深い記事ですね。
「漱石が五校(熊本大学)の英語教師として」の「五校」は「五高」と書く方が一般的かと思います。「旧制五高」とされたらもっといいかも。
写真がやや小さいので、クリックすると大きくなる方法を調べて使っていただけると有難いのですが。
武田智孝様
コメントありがとうございました。
ご指摘の通り、「五校」は「五高」の誤りでした。訂正しておきます。