豊後街道を辿る その2

この街道の出発地点は、熊本城の西に位置する「里程元標跡」です。説明書きには次の様に記述されていました

熊本城内と城下町を結ぶ接点であった新一丁目御門の前には、肥後藩の種々の政令を掲示する「札の辻」と呼ばれる広場がありました。
この「札の辻」が里程元標にあたり、ここを起点として、豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数が測られました。その際に、一里、二里、三里…と進むごとに、街道の両側に榎を植えてこれを里数木と称していました。
現在でも、バス停や駅の名称に、「一里木」、「二里木」、「三里木」などといった当時の呼称がそのまま使われているところがあります。
このモニュメントは、歴史街道の起点を保存し、後世に伝えるものです。

平成六年十一月 熊本市長 田尻靖幹

「札の辻」とは、江戸時代、官の制札を立てた辻で、多くは全国各地の城下町にありました。今も地名として残されています。

さて、本題の豊後街道は、熊本城から大分市の鶴崎湊まで、31里、124kmの距離があり、どのような日程が組まれたのでしょうか? 参勤交代時の宿泊・休憩のための施設が、大津宿、的石茶屋、内牧宿、坂梨宿、笹倉、久住宿、今市宿、野津原宿、鶴崎茶屋等に残されていますが、どこまで確認できるか楽しみです。

このモニュメントが置かれている場所は、「清爽園(せいそうえん)」と言って明治10年の西南戦争の2年後に造られた記念庭園で、大名屋敷であった花畑屋敷の庭石を再利用しているだけに、見事な造形が各所に見られます。本来は、じっくり鑑賞したいところですが、時間の制約もあり、残念ながら、割愛せざるを得ませんでした。

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