豊後街道を辿る その3
旧細川刑部邸
清爽園を右に見て豊後街道を北上すると、この旧細川刑部邸に突き当たります。残念ながら先の熊本地震の影響で休園中でした。ネット上では、この内部の写真が多数見られます。一例として、熊本市のガイドの他、熊本県公式サイト、ウィキペディア等です。
以下は熊本市観光ガイドによる説明です。
細川刑部(ほそかわぎょうぶ)家は、細川家三代忠利(ただとし)公の弟、細川刑部少輔興孝(ほそかわぎょうぶしょうゆうおきたか)が正保3年(1646年)に2万5千石を与えられて興したものです。この建物は、その後、子飼(こかい)、現在の熊本市東子飼町で下屋敷として使用していたものを平成2年から4ヶ年かけて移築したものです。同邸は建坪300坪あり、唐破風の大きな玄関は、重臣などの訪問や当主だけが使ったとされています。また、入側造りの表御書院は、江戸時代の大名邸宅の造りを残しています。他にも、二階建ての「春松閣」や一階の「銀之間」が、別棟には書斎の付いた茶室「観川亭」、御宝蔵、台所があり、全国有数の上級武家屋敷としての格式を持っています。
熊本市観光ガイド
熊本県の重要文化財指定されています。
百間石垣
街道を西に進むと、右手(二の丸の北側)に百間石垣という巨大な桝形の石垣が出現しました。長さ131m、高さ9mに及ぶもので、北方の重要な守りの要だったようです。ここは、新堀御門から京町にでる豊後街道への熊本城内からの通過路にあたります。東端の門を埋門(うずみもん)、西端を二の丸北御門と称します。この埋門は石垣の間につくられた櫓門で、一般的な埋門とは構造が異なり、天井には石垣がありません。
加藤清正公が築城した壮観な姿は、その石垣にも現れており、その石垣は清正公の家来に飯田覚兵衛と三宅角左衛門という二人の石垣作りの名人がいたためと言われてます。この百間石垣は飯田覚兵衛が築いたものです。
この百間石垣は、平成28年(2016)の熊本地震で3ヶ所が大きく崩れてしまい、手前の道路が完全に塞がれてしまいました。しかしながら、交通量の多い市道に面しており、近くに病院があり、緊急車両も多いことから、その復旧工事も優先されたようで、小生が訪問した2023年9月28日には金網で補強はされているものの、通行には何ら支障はありませんでした。