伊勢参宮日記 その17

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #5018-1
廿八日晴。今日、東京八時ニ出發。横濱、糸屋ニ休息。               28日晴れ。今日、東京を八時に出発した。横浜の糸屋で休憩した。
午后十一時乗船春。津田、松本、同船春。午後11時に、津田と松本も一緒に乗船した。
廿九日晴。海上如鏡。終日無聊。夕四時過、中津ニ29日晴れ。海上は鏡のように穏やかだった。船中では一日退屈であった。夕方の4時過ぎに、大阪の中津に
着船。津田同宿。着が着いた。津田と同じ宿に泊まった。
三十日晴。汽船不来。一日滞留。午前楠公社参拝。30日晴れ。博多方面行きの汽船は来なかった。一日中帰路を阻まれた。午前中に楠公社(湊川神社)を参拝した。
帰路、上田に立寄、不在。骨董店奈と見物。午后不出。帰る途中、上田の家にに立ち寄ったが不在だった。骨董品屋などを見物した。午後は外出しなかった。
三十一日晴。此花丸ニ乗船の仕度。31日晴れ。此花丸に乗船する仕度をした。
青柳の、靡く姿乎、ミ天てもし連、風者心の、末ゝ奈良奴世乎。青々と枝葉を垂れ伸ばした柳が、なびく様を見ても判るだろう。風というものは思いのままにならないこの世の中を。
こ者、お毛ふことあり天よめり。これは、思うことがあって詠んだ句だ。

1行目の「横濱糸屋」は、慶応年間に、横浜南仲町二丁目に田中平八が店を構え、両替商と生糸・茶などを輸出していました。

5行目に「楠公社(なんこうしゃ)」とありますが、これは桜田門外の変に加わった水戸藩士達が、江戸へ向かう途中の長岡宿で、楠正成一族の忠誠にならい、髪を切り埋めたことから、明治9年に現在の茨城町に塚が築かれ、その髪を移して社が建立されました。これが楠公社です。これと前後して、佐賀藩・長州藩・尾張藩・薩摩藩等で楠公祭が執り行われ、全国的に楠公を祭る社が建立されました。ここに出てくる「楠公社参拝」が、どこを指すのか不明ですが、大阪には楠親子のゆかりの地が数多くある一方、参拝に最もふさわしい社は、神戸の湊川神社であり、ここだろうと思われます。当時の大阪~神戸駅間は、明治7年に関西初の鉄道が開業されており、容易に往復出来そうです。

「此花丸」は、明治12年5月に製造され(275.28噸、21.6馬力)で、大阪商船会社が、第二本船として瀬戸内海経由で博多・長崎方面を運航していました。

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