伊勢参宮日記 その13

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #5018-1
かく禮住、君可庵尓毛、おもひきや、う起よの花能、さ可武物とハ。                  隠遁しているあなたの家に、世間の花が咲くだろうとは、決して思いませんでしたよ。
午前帰宿。近藤尼来。話。夕、元田ニ行、不在。米田尓午前中に宿に帰った。尼僧の近藤さんが来た。話をして夕方に、元田(東野)を尋ねたが不在だった。米田の所にも
立寄、不在。古荘尓て夕飯。竹添ニい多り、十時過帰る。立ち寄ったが、不在だった。古荘(嘉門)の家で夕飯をごちそうになった。竹添(進一郎の子)の家にも寄って、午後10時過ぎに宿に帰った。
十九日、午前教院尓出頭。午后一時過、帰宿。吉田雲19日、午前中に教院(東京大神宮)に出向いた。午後1時過に、宿に帰った。吉田雲という人
ハ、清水安石仕人、松尾来、夕散。は、清水安石の奉公人である。松尾が来て、夕方には別れた。
二十日曇。午前、高崎正風を訪。暫時談話。帰路20日曇り。午前中、高崎正風(高崎知事の従兄弟)を訪ねた。しばらく雑談をしたが、その帰り道に
小山田越訪問。教會の事を談春。今日、初天落着。小山田を訪ねて、教会のことを話した。今日に至って、初めて一件落着した。
山岡ニよミて送る。山岡(鉄舟)に歌を詠んで送った。
うき雲も、終尓ハ晴無、多ゆミ奈く、心の月能、影しミ可ゝハ。曇天の空も、心を清く持って途絶えることなく精進すれば、最後には晴れるというものだ。

三行目の「古荘嘉門」は、上記の筆者との面談の1年後の明治21年1月に熊本国権党を創立し、佐々友房が副総理になったが、そもそも熊本国権党は、佐々友房・古荘嘉門らが主体となって設立した紫溟会が母体であった。筆者は佐々友房と盟友の関係にあり、紫溟会が設立した済々黌とも深いつながりがある。本人は教頭的な立場で参画し、長男を卒業させ、次女を済々黌附属女学校の裁縫教師として送り込んでいる。

山岡鉄舟は、この年(明治21年)の7月19日に胃癌で亡くなっています。筆者は東京在中に、1月13日訪問不在、翌14日に面談、20日に和歌を送り、21日に再訪、長時間面談しています。この和歌は、筆者から山岡鉄舟に病気回復を願い、励ましの様にも読み取れます。

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