伊勢参宮日記 その9
くずし字解読
十日晴。午前、金子を教會衣遣ス。午前、津田、島田 | 10日晴れ。午前中に、金子を教会に使いにやった。午前中、津田、島田 |
来話。午後一時過、帰る。 | が来て話をした。午後1時過に両名は帰った。 |
十一日晴。寒氣つよし。午前、古荘嘉門来訪。教會の | 11日晴れ。寒気が強い。午前中、古荘嘉門が尋ねて来た。教会の |
事を談須。午后三時、寺島蘭荘、林正弘、来一酌臥床。 | 事について相談をした。午後3時、寺島蘭荘、林正弘が来て、酒を酌み交わして床に入った。 |
十二日晴。午前、教院尓出頭。小山ニ逢。教會主任之 | 12日晴れ。午前中、教院(東京大神宮)に出向いた。小山に会ったが、彼は教会の主任を勤めている |
人なり。會長田中病気ニ付、尋問見合。帰路向山尓 | 人であった。会長の田中は病気だったので、訪問を見合わせた。帰り道に向山(黄村)に |
い多り酔月楼尓同行春。一酌後、同車、琳琅閣尓行 | 会って酔月楼に同行した。酒を軽く酌んだ後に、同じ車で、琳琅閣書店に行き、 |
夕帰宿。 | 夕方に宿に帰った。 |
十三日晴。午前、寺田、斉藤来。午后、山岡勝を訪問。 | 13日晴れ。午前中、寺田と斉藤が来た。午後、山岡(鉄舟)、勝(海舟)を訪問した。 |
一口メモ
これまで「教會」と言う言葉が出てきていますが、ここで言う教会は、「東京大神宮」の事と思われます。これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として明治13年に作られたものです。熊本大神宮はこの支部的な立場にあります。
3行目の「古荘嘉門(ふるしょうかもん)」は熊本藩士・政治家で、筆者が面会した当時は、佐々友房と共に熊本国権党を創立する準備期だったようです。筆者も同党の謀師と言われています。同党は、国権拡張を運動目標として結成された政治団体です。
5行目の「教院(きょういん)」とは、禅宗の寺院以外の、教宗の寺院の総称です。
最終行に「山岡勝」とありますが、これは山岡鉄舟と勝海舟でないかと思われます。明治21年当時、勝海舟は港区赤坂6-6-14に居住しており、一方、山岡鉄舟は四谷に住んでいたので、両者を同時に訪ねても、徒歩30分程の距離なので、おかしくないと思います。ただ、勝海舟はこれまで「勝安房氏」「勝翁」と表現されており、多少の違和感はありますが、そこは日記と言うことで許されると思います。
「尋問」は「尋ね問う」=「訪ね問う」=「訪問」だろうと思います。
現代では「尋問」だと裁判みたいなので、「訪問」とした方がいいと思います。
武田智孝様
コメントありがとうございました。
「尋問」は、無意識にそのまま使用してしまいました。変更しておきます。