伊勢参宮日記 その8

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #5018-1
来る。午后、島田蕃根、高橋泥舟翁来、元田、出向達が来た。午後になり、島田蕃根高橋泥舟翁が来た。元田、出向(でむかい)も
来る。夕六時客散春。足痛の多め不出。来た。夕方6時には客が帰った。今日は足が痛いため外出しなかった。
八日晴。午前、正弘来。遠坂、鎌田、島田、古荘、高原8日晴れ。午前中、(林)正弘が来た。遠坂、鎌田、島田、古荘、高原達が
来る。終日臥床。對客尓て日暮ぬ。来た。一日中床に就いたままで、お客と接している内に、いつの間にか日が暮れてしまった。
五日晴。午前、寺田弘、今戸様尓奉りし歌。5日(9日の誤り)晴れ。午前中、寺田弘と、今戸様に捧げた歌。
佐らて多に、心須ミ田の、高殿尓、迎ふる年の、者しめをそお毛ふ。そうでなくてさえ、気に掛かる三田の御殿(細川藩江戸白金中屋敷)に迎える年の初めに思いを馳せる。
帰るへき、春も王すれて、とひきつる、雁のこゝろの、本とをしらな武。春には帰らなくてはならない事も忘れて、飛んでくる雁の気持ちを知って欲しいものだ。
午後、天雨、池辺来訪。六時過散春。勝翁尓書面を午後に、天雨と池辺が訪ねてきた。6時過に別れる。勝翁(海舟・安房)に書簡を
遣須。扇面一葉、返翰尓かへて送らる。託した。扇子の一面に、返翰(へんかん=返書)が書かれ、送られてきた。

1行目の「島田蕃根(しまだばんこん)」は、僧・仏教学者ですが、「高橋泥舟(たかはしでいしゅう)」は、安政6年(1859)講武所師範役となり、慶応2年(1866)遊撃隊頭。 鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜に恭順を説き、寛永寺で護衛にあたりました。 維新後は隠棲し、 勝海舟・山岡鉄舟と共に幕末三舟と称されました。「山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)」は、幕末期の幕臣・剣術家、 明治初期の侍従・書家として知ら れています。 鉄舟は号で、 本名は、 鐵太郎。 講武所の剣術世話役、 幕府の浪士取締役を経て、 徳川慶喜の護衛にあたった精鋭隊歩兵頭格も務めました。日本の幕末の幕臣で、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人でした。山岡鐵太郎は高橋泥舟の養子となりました。山岡鉄舟は、西郷隆盛の強い推薦で、明治5年に宮内省に入りました。筆者も明治8年に、同様に宮内省に勤務し、明治16年には二人揃って退官しています。筆者と幕末三舟の年齢差は、海舟が最年長で、高橋泥舟は12年下、山岡鉄舟は13年下、筆者は20年下の関係にあります。

6行目の「今戸様」は、熊本藩第十一代藩主の細川韶邦公です。

文中に、「三田の高殿」とありますが、これは細川藩江戸藩邸の白金中屋敷のことで、筆者の祖父・父がここでお殿様の側で仕えた関係から、このような和歌が詠まれたものと思われます。

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