伊勢参宮日記 その6

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #5018-1
十時過別連、出車。午后三時、四日市ニ着ぬ。いと十時過に別れて、人力車で出発し、午後3時に四日市に到着した。大いに
明日の舟出を待ぬ。開明楼尓て、歌をこ者礼介礼介禮ハ、明日の舟出を心待ちした。開明楼で、和歌を詠んで欲しいと頼まれたので、
桃桜、いつも尓本ひて、佐須可末多、ひら介行世の、春をミセ介り。    桃や桜は、いつも良い香りを発して、さすがに、これからも発展して行く世の中の春を象徴しているようだ。
三日曇。午後三時名古屋丸尓能里ぬ。午後五時發三日曇り。午後3時に名古屋丸に乗船した。午後5時に
船須。海上靜奈里。出船した。海上は穏やかだ。
四日晴。午前十時横濱着船。東屋尓午飯。直尓四日晴れ。午前10時に横浜港に着く。東屋に昼食を取り、直ちに
汽車、東京尓着。麹町五丁目、相模屋ニ宿泊。車汽車に乗り換え、東京に着く。麹町五丁目の相模屋に宿泊した。人力車
尓天元田東野老を訪。教會の事を談春。元田元田東野(永孚)老を訪ねて、教会の事について話をした。元田
老人、大ニ、同情をよセ承知、明日三■を訪、■■と云老人は大いに、同情をよせてくれて理解をしてもらった。明日には三■を訪、■■という

1行目に10時過ぎに(開明楼)で別れて、四日市まで5時間かけて移動したということは、開明楼は津市内に存在したと推定出来ます。津・四日市間の距離は、50km程度ですので、人力車を利用するとつじつまが合います。

元田東野(永孚=ながざね)は、明治8年に宮内省に勤務、明治天皇の侍講となっていますが、筆者も同じく明治8年に雑掌(宮中の雑役をつかさどった判任官)として宮内省に勤務し始めていますので、同じ熊本藩出身の旧知の仲と推察出来ます。尚、元田翁と筆者は25才の年齢差があります。

最終行に判読不明な文字があります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です