伊勢参宮日記 その2

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #5018-1
半博多着。九時より乗船。玄海風浪甚し。(夕方の5時)30分に博多に到着した。午後9時に乗船。玄海灘は風浪が大変強かった。
二十八日晴。風波静なり。海如鏡。28日晴れ。風や波が治まり静だった。海は鏡のように平らであった。
心清く、雲ゐの月や、奈可武らん、う起世の塵を、風尓ま可セて。美しい心をもって、遠く離れた月を眺めよう、この世の煩わしいことは、風の向くままに任かせて。
奈禮天ミし、雲ゐの月能、くもるよハ、獨袖をや、君志本るらん。見慣れてしまった遠くの月が、曇って見えない夜は、あなたはひどく悲しんで泣いていることだろう。
今日ハ又、とひこそ来つれ、玉琴の、古き志らへの、聞末本しさ尓。今日もまた、美しい琴の、昔ながらの音色を聞きたさに、尋ねて来てしまった。
こは、勝安房氏に遣し介る。この三つの短歌は、勝安房(勝海舟)氏に送ったもの。
廿九日晴。海面平。午后六日、神戸着。竹村田宿、一酌廿九日晴れ。海面は静か。午后6時に神戸に到着。竹村田の宿に泊り、酒を飲んで
臥床。寝床に入った。
三十日曇。午前五時気車ニ而大津尓至り、夫より三十日曇り。午前5時に汽車で神戸を出発し、大津に着いて、それから

5行目の「とひこそ」の「こそ」の原文は、合字で書かれています。

7行目の「日」は、「時」の「寺」を省略したものと思われます。

文中に勝海舟宛てに歌を送ったとありますが、筆者(当家十二代)は天保14年生まれですので、勝海舟より20才若く、当時は44才でした。後の頁に、三度も面会を依頼しましたが、会ってくれなかったという下りがあります。当時の勝海舟は御年64才ですので、無理からぬことと思います。

勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟は、「幕末の三舟」と呼ばれていますが、著者は山岡鉄舟と親交が厚かった関係で、義兄の高橋泥舟と共に勝海舟との接点があったと思われます。

汽車と言えば、ご存じの通り、明治5年には日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業され、明治7年には神戸・京都間が、明治13年には京都・大津間が開通しました。この日記は、明治20年の記録ですので、快適な旅行であったと思われます。ちなみに、明治22年には東海道が全線開通するという大発展がありました。

伊勢参宮日記 その2” に対して2件のコメントがあります。

  1. 武田智孝 より:

    「獨袖をや、君志本るらん」は「独り袖をゃ 君絞るらん」でしょうから、「君は独り涙に濡れた袖を絞っていることであろう」といった意味ではないでしょうか。
    涙に袖を絞るなど昔の表現はオーバーですけど、みなちょっと色っぽいですね。
    風情を感じますよね。

    1. sokei より:

      武田智孝様
      コメントありがとうございました。ご指摘の通り、忠実に訳すべきでした。訂正しておきます。

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