当家に関わる諸控 その28(完)

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3022
    出入之者知らせ向    (屋敷に)出入りする者の連絡先
  田中喜右衛門 赤岸五郎八   林 礒太         田中喜右衛門(百石?)   赤岸五郎八(?)     林 礒太(?)
  宮崎宇八郎  野口五兵衛  宮崎宇八郎(?)    野口五兵衛(?)
  松原惟一   野田和太郎  成松長兵衛  松原惟一(?)     野田和太郎(?)     成松長兵衛(?)
  縄内左傳  縄内左傳(?)
    屋坪数    家屋の坪数
    四百五拾坪        拝領分    450坪       拝領した家屋
    百坪           御借添    100坪       借り増しをした家屋
    四拾坪七合        〃    40坪7合         〃
    三拾坪          妙圓寺丁    30坪   明円寺町(熊本市中央区水道町・屋敷跡の東北隣)
    六百弐拾坪 七合    小計は、620坪と7合(0.7坪)
    外ニ 七拾七坪       伊藤久右衛門屋敷       他に 77坪       伊藤久右衛門の家屋
    右御借添候処、無役ニハ御借添出来不申    この土地を借り加えたところ、課税のない者からは借り加えることが出来ないと、
    候ニ付、野村寅典様屋敷ニ相加へ候    いうことで、野村寅典様の家屋に統合してから借り加えました。
    文久三亥年    文久三年亥年(1863年)
  伊藤分共  伊藤久右衛門の家屋を合わせて
  合  合計
   六百九拾七坪七合   697坪と7合
  六百八拾四坪     高尚於  684坪は、     実測値(?)です。
  差引  差し引き
     拾三坪七合過     13坪7合が過剰分です。

1行目の「出入之者」とは、屋敷に出入りしている人物のようで、眞藤國雄氏の「肥後細川藩拾遺:肥後細川家侍帳」ではヒットしなかったため、一般町民ではないかと推察されます。「田中喜右衛門」は当時の3,4代以前の人物ですので、百石の同氏とは違うと思われます。

6行目の「屋坪数」の「屋」は、正しくは「家屋」のことと思われます。

この坪数が450坪とありますが、これは眞藤國雄氏の「津々堂のたわごと日録の地図散歩」で紹介されいる地図と、現在の地図とを照らし合わせて見ますと、屋敷は、道路側が90m、奥行きが40m程あります。坪数にすると、1,100坪弱になります。

屋敷内には家族の為の家の他に、家来の為の武家長屋などが建てられたことが予想され、これだけの敷地が必要とされていた言うことになります。

伊藤久右衛門は、侍帳では「御留守居中根 百石御擬作」とあります。

残念ながら、これらの屋敷は、明治10年(1877)の西南戦争の折に、熊本城と共に戦火に見舞われ、焼失してしまいました。

以上で、「緒控」の内容の説明は終わりますが、記述自体の裏付けは十分でなく、今後更に確認する必要があると思われます。

次回からは、当家十二代の明治20年の「伊勢参宮日記」を紹介させて頂きます。

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