当家に関わる諸控 その26

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3022
      段山      段山(だにやま)熊本市段山本町・島崎一丁目
   小坂九郞助  志水謙蔵   小坂九郞助(御用人、千石)  志水謙蔵(?)
      二ノ丸右京町邊      二ノ丸右(中央区二の丸)、京町(中央区京町)辺り
   溝口蔵人    長岡右門    額田権次   溝口蔵人(弐千八百石)  長岡右門(?)  額田権次(七百石)
   金森七郎右衛門 平野九郞右衛門 郡源大夫   金森七郎右衛門(二百石) 平野九郞右衛門(二千四百石) 郡源大夫(二千四百石)
   下津久馬   下津久馬(千石)
     京町赤尾口邊     京町の赤尾口辺り
   藤本常㐂    遠坂関内    三宅藤兵衛   藤本常㐂(?)    遠坂関内(千石)    三宅藤兵衛(千五百石)
   寺尾継太郎   藤崎喜八郎   岩崎仁右衛門   寺尾継太郎(千五十石)   藤崎喜八郎(千石)   岩崎仁右衛門(百五十石)
   中川郡右衛門   中川郡右衛門(百五十石)
      坪井千反畑邊      坪井・千反畑(外坪井・せんだんばた)辺り
   高見次左衛門  宮村新兵衛   大木治部平   高見次左衛門(二百石)  宮村新兵衛(四百五十石)   大木治部平(五百石)
   松岡仁左衛門  千代村宗元 須佐美権之允   松岡仁左衛門(?)  千代村宗元(?)  須佐美権之允(二百石)
   佐分利又兵衛  澤村学之助   長松才兵衛   佐分利又兵衛(三百五十石)  澤村学之助(?)   長松才兵衛(?)
   杉野久右衛門  相部運蔵    吉田潤之助   杉野久右衛門(百石)  相部運蔵(百石)    吉田潤之助(三百石)
                 志方半兵衛                志方半兵衛(三百石)
      通り丁邊      通り町(とおりちょう=熊本市中央区通町)辺り
   志水平十郎   北垣長兵衛   志水三次兵衞   志水平十郎(千弐百石)  北垣長兵衛(二百石)  志水三次兵衞(千百石)
   松野新右衛門  山尾甚助    山本文右衛門   松野新右衛門(千三百石)  山尾甚助(二百石)    山本文右衛門(千五百石)

「段山」は、「日本歴史地名体系」によると、「熊本城のある茶臼山が西に向かうにつれ、しだいに低下して藤崎台となり、その台地先端がくびれた形でやや低地化し、次の新たな半楕円形の舌状台地となり、この舌状台地を段山と称する」とあります。

又、「二ノ丸右京町」は、「二ノ丸の右と京町」と「二ノ丸と京町の右」のどちらが正しいのか曖昧ですが、次に、「京町赤尾口邊」がありますので,上記のように判断しました。

同様に、「京町赤尾口」は、「京町台地の西突端地域は宇土小路に並行する通りで区画される。この小路は北端は台地の崖縁まで、南は中央東西道までで、それより以南は低地となるため崖下まで急坂の小路地をつけて屋敷が並ぶ。この南北に走る通りを明治期以降赤尾口と称した(現熊本営林局東側道路)。寛文頃には赤尾口の南端、東西通りの下り坂に地子屋敷一と釈正寺(しゃくしょうじ)が並ぶ。赤尾口の東側沿いに四屋敷(うち下屋敷二)が並び、次いで京町台の北端を走る東西道と交差した北の部分に三屋敷、その奥の東に入る袋小路に鉄炮衆屋敷三が並ぶ。南の武家屋敷は三〇〇石前後、北側は二〇〇石前後の屋敷である。」と解説されています。

「坪井・千反畑」の坪井は、古地図で見ますと、通常外坪井のことの様です。

「高見次左衛門」は、当家二代権右衛門重政の弟、少五郎重治の系統の分家です。

次の行の「須佐美権之允」は、当家九代の妻である「みち」の生家です。

最終行の「志方半兵衛」は、当家十代の生家です。

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