九代 高見権右衛門武久 (7)

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

御達ニ相成居候処同年二月十八日右御用掛被遊 御免旨御達ニ相成候

同年二月二十七日 御家督御元服御用掛被 仰付旨於御家間被

申渡候 文政九年三月二日 諦観院様御道具之内 錫御花生 一

御提ケ御弁當一 御椀一 御紙入一 御式紙一枚 御扇子二本

御石筆一本 御煙管一本 御小蓋一枚 御汗取一被 下置候

太守様 御家督 御禮被 仰上候節御家老代として

公義江 御目見被 仰付旨於御家老間美濃殿被 申渡候

文政九年四月十八日御城江罷出

公儀江御目見申上候 文政九年四月六日當年 御入國之御供被 仰付旨

於御家老間織部殿被申渡候 文政九年五月十六日 諦観院様関驛

御滞留中出精相勤候ニ付 越後嶋二端被下置候同日 諦観院様

御召古之内 葉桜御紋附裏附御肩衣一 琥珀御袴一具

九曜御紋附繊御熨斗目一 五三桐御紋附縮緬御袷一 五三桐御紋附

縮緬御袷羽織一 厚板御型袴一具被下置候

達しがあり準備していたところ同年2月18日このご用掛けは不要であるとのお達しになってしまった。

同年2月27日家督・元服のご用掛けを仰せ付けられる旨家老の間にて申し渡された。

文政9年3月2日諦観院様の道具のうち錫の花活け一、提ケ弁当(持ち運び用弁当箱)一、お椀一、紙入一、式紙(色紙)一枚、扇子二本、石筆(鉛や粘土を用いた鉛筆のようなもの)一本、煙管(きせる)一本、小蓋(こふた=子蓋物・蓋のある小さな容器)一枚、汗取り一をそれぞれ(形見分けとして)戴いた。

太守様(熊本藩十代藩主細川齋護公)の家督のお礼を仰せ上げられる折に、家老代理として江戸幕府の将軍に直接拝謁することを仰せ付けられる旨、家老の間で美濃殿が申し渡された。文政9年4月18日お城へまかり出て、公儀へお目見え申し上げた。

文政9年4月6日当年熊本へ入国のお供を仰せ付けられる旨、家老の間にて織部殿が申し渡された。

文政9年5月16日諦観院様関驛(東海道五十三驛の一つ旧三重県鈴鹿関)にご滞留中に期待通りの勤めをしたので、越後嶋二端(二反)を頂いた。同日諦観院様がお召しになっていた古着のうち、葉桜紋付裏附の肩衣一、琥珀袴一具、九曜の紋附熨斗目一、五三桐紋附縮緬袷一、五三桐紋附縮緬袷羽織一、厚板型袴一具を戴いた。

一口メモ

御目見について

御目見(おめみえ)とは、目通り・拝謁・謁見などと同義語で、「目上の人にお目にかかる」という意味。

文政9年(1826) 4月18日熊本藩十代藩主の細川斉護公は家督相続に伴い、当時の江戸幕府代十一代征夷大将軍徳川家斉公に拝謁されたが、その際に権右衛門武久は、家老代理として同行、拝謁することになる。

尚、細川家は八代斉茲公、九代斉樹公、十代斉護公と三代に亘って将軍徳川家斉公から偏諱(へんき)を賜っている。

上様の呼称について

上記文中に、「太守様」とあるが、これは徳川御三家に次ぐ国持大名(複数の国を統治している大名)の別称だが、肥後細川藩主は、れっきとした国持大名である。支藩として、高瀬藩及び宇土藩、相良家の人吉藩、天領となった富岡藩(天草藩)がその対象である。

高見家九代の武久は、肥後熊本藩第八代藩主から九代、十代の三代に亘ってお側に仕えたが、それらの妻子を含めるとその登場人物はかなりの数になり、しかもそれらの呼 称は同一人物であっても、その時代時代に代わってくるのでややこしい。ここで整理をしておく。

八代藩主の斉茲公は、天明7年(1787)に即位され、武久は享和元年(1801)にお目見してから天保6年(1835)に81歳で逝去されるまで仕えた。その間の呼称は「濱町様」隠居後は「少将様」、「諦了院様」と記されている。

九代藩主の斉樹公は、文化7年(1810)に即位され、文政9年(1826)に30歳の若さで逝去された。「諦観院様」

十代藩主の斉護公は、文政9年(1826)に即位され、万延元年(1860)に57歳で逝去された。「泰厳院様」

その子で世嗣の慶前様は、幼少時代は「雅之進様」元服後は「若殿様」と呼ばれたが、残念なことに嘉永元年(1848)に24歳で早世された。