九代 高見権右衛門武久 (6)

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

文政六年十二月二十五日兼々出精相勤且秋以来 篤姫様御不例ニ付而ハ

彼是御用茂相増候処出精相勤候ニ付 五三桐御紋裏附御上下一具御内々

被下置候 文政七年正月二十七日當年 御帰國之御供被 仰付旨美

濃殿被申渡候 文政七年五月十五日江戸被遊 御発駕同年六月

十七日熊本江被遊 御着御供ニ而着仕候 貞厳院様被遊 御逝去

候ニ付為 御遺物 九曜御紋附御小袖一同御紋附御袷一御附役奉

礼より以文政七年七月被下置候 文政七年九月十五日来年 御参勤

之御供志らべ被 仰付旨御用番被申渡候 文政七年十二月二十四日兼々出精

相勤今度御庭 御宮建方被 仰付候ニ付而夫心配以多し候ニ付九曜

御紋附羽二重御小袖一於御次被下置候 文政八年八月七日出府被

仰付 御発駕御同日被指立旨御達有之候 文政八年九月二十五

熊本被遊 御発駕同年十二月二日江府江被遊 御着道中筋御

本陣御番等相勤同日江府江着仕候 文政九年二月十二日 諦観院様

被遊 御逝去候ニ付翌十三日 御葬式等御法事御用掛被 仰付旨

文政6年12月25日兼々精を出し勤め、かつ秋以来篤姫様の体調がすぐれないことで、あれこれっと用事が増したところを出精し勤めたので、五三桐の紋裏添え上下一具を内々で戴いた。

文政7年(1824年)正月27日今年帰国のお供を仰せ付けられる旨美濃殿が申し渡された。

文政7年5月15日江戸を出発遊ばされる。

同年6月17日熊本へお着き遊ばされたが、このお供で熊本に着いた。貞厳院様(八代細川斉茲公側室)ご逝去遊ばされたので遺物(つかいもの=プレゼント)として九曜紋付小袖一、同紋付袷一を附役等の礼の意味をもって文政7年7月戴いた 。

文政7年9月15日来年参勤のお供調べを仰せ付けられる旨用番に申し渡された。

文政7年12月24日兼々出精に勤め、この度のお庭、お宮の建方(上棟)を仰せ付けられ、しかもその心配りを行ったので、九曜紋付羽二重小袖一を次の間にて戴いた。

文政8年(1825年)8月7日江戸へ行くことを仰せ付けられ、御殿が出発されるその日のうちにお供するようお達しがあった。

文政8年9月25日熊本を出発遊ばされる。同年12月2日江戸へお着き遊ばされ、道中筋の本陣の番等を勤め、同じ日に江戸に着いた。

文政9年(1826年)2月12日諦観院様(第九代藩主細川斉樹公)がご逝去されたので、翌13日葬式兼法事のご用掛けを仰せ付けられる旨(お達しがあったところ)

くずし字解読

上画像の一行目から2行目にかけての文字を再掲しているが、とても読みやすいくずし字である。

一行目

「篤姫様」(あつひめさま)「御不例」(ごぶれい=ご病気)「ニ付而ハ」(については)カタカナまじりで分かりやすいが、「而」ての意味の接続詞でだが頻繁にみられるのは、「ニ而」(にて)であるので覚えておこう。

二行目

「彼是」(あれこれ)「御用茂」(ごようも)「相増候処」(あいましそうろうところ)

「茂」は変体仮名の「も」。変体仮名とは、現在使われていない昔のひらがなで320ほどあるが、頻繁につかわれているのは70文字程度なので覚えておこう。

「候」はしょっちゅう使われる文字で、上のように大幅に省略されている。極端には斜めの棒一本で代用する場合がある。

「処」=「處」何々している(ところ=居り)。一般的には旧漢字の「處」が使われているが、ここでは現代と同じ漢字が使われている。旧漢字については、「舊漢字 書いて、覺えて、楽しめて」を参考にされたい。

文字の大きさにも注意を払うと、大きなヒントを得ることができるが、小さな文字は汎用的な文字で覚えやすい。