九代 高見権右衛門武久 (5)
御縁組御用相勤候付被遊 御祝九曜御紋附御上下一具同御紋附
御小袖一被下置旨織部殿被申渡候 文政五年閏正月十九日當年
御帰国之御供被 仰付旨織部殿被申渡候同年四月二十四日江戸被遊
御発駕御道中筋御用人之諸勤績相勤同年五月二十八日御國許被遊
御着座御供ニ而罷下申候 文政五年九月二日来年 御参勤之御供
志らべ被 仰付旨永嶋扇殿被申渡候同年十月十日来年御参勤之
御供被 仰付旨美濃殿被申渡候文政五年十二月二十八日兼々出精
相勤候付 五三桐御紋附羽二重御小袖一御内々ヨリ被下置候
文政六年二月十三日濱町御誕生御用受込被 仰付旨織部殿被
申渡候同年三月二十一日 コウ(土の下句)姫様御誕生御用受込被 仰付置相
勤候ニ付被遊 御祝 九曜御紋附御小袖一被下置候 文政六年三月
二十七日熊本被遊 御発駕御供ニ而罷立同年五月六日江戸被遊
御着御道中御用人之諸勤績相勤着仕候 文政六年十二月三日
来年御帰国之御供志らべ被 仰付旨美濃殿被申渡候
(篤姫様の)縁組のご用を勤めたので、お祝いに九曜紋付上下一具と紋附小袖一を下される旨、織部殿が申し渡された。
文政5年閏正月19日この年帰国のお供を仰せ付けられる旨織部殿が申し渡された。
同年4月24日お殿が江戸を出発され、道中筋の用人の諸責務を相勤めた。
同年5月28日熊本にお着き遊ばされ、お供に加わった。
文政5年9月2日来年の参勤のお供についての調査をする旨永嶋郎殿が申し渡された。
同年10月10日来年の参勤が仰せ付けられる旨、美濃殿が申し渡された。
文政5年12月28日兼々出精に勤めたので五三桐紋附羽二重小袖一を内々より戴いた。
文政6年2月13日濱町の屋敷(肥後藩8代藩主の細川斉茲公が造る)のお誕生ご用の受入れを仰せ付けられる旨織部殿が申し渡された。
同年3月21日、コウ(土の下句)姫様のお誕生のご用受入れを仰せ付けられ、勤めたのでお祝遊ばされ、九曜紋付小袖一を戴いた。
文政6年3月27日熊本を出発されるお供として罷り立ち同年5月6日江戸にお着き遊ばされた。道中、用人の責務を相勤めた。
文政6年12月3日、来年帰国のお供についての調査を仰せ付けられる旨美濃殿が申し渡された。
一口メモ
すでにお気づきであろうが、本文中随所に次のような独特の言い回しが出てくる。
御小袖を一つ(私に)下し置かれる(という旨を)織部殿(が)申し渡された。
御帰国の御供を(私が)仰せ付けられる(という旨を)織部殿が申し渡された。
御参勤の御供調べを(私が)仰せ付けられる(という旨を)永嶋扇殿が申し渡された。
来年御参勤の御供を(私が)仰せ付けられる(という旨を)美濃殿が申し渡された。
御誕生御用の受込を(私が)仰せ付けられる(という旨を)織部殿が申し渡された。
来年御帰国の御供調べを(私が)仰せ付けられる(という旨を)美濃殿が申し渡された。
特徴としては、仰せつけた本人が登場せずに、仲介者が明記されていることにある。
一方、下記のように仲介者がおらず主体者が直接実行したケースもある。
御内々ヨリ被下置候 (内々より私に下された)
これらの手法は上意下達を明確にすることで、主旨の徹底を図るという意味合いがあるのかも知れない。