松の落葉 その38

奥書 その2 原文

我が家は、志方の城のある志となり志ころは、赤松氏とゝなへ志も、細川家に

仕るに於よび、憚るところありて、舊城のあり志地名をとりて、志方氏に代へ、

乳母が携へ來り志長刀は、これより傳家の寶となり志が、惜むらくば、西郷の

亂によりて、兵火にかゝり、今はその俤をとゞめ志のみ。其後、忠興公の子、

忠利公の肥後を領せらるゝに及び、六助君もまた随ひて、肥後に向はれ、家祿は、

僅かに参百石なり志も、丹波より小倉を經て、肥後に随行せ志かば、細川家にても、

最も久志き舊臣と志て、特に優遇せられぬ、されば、此れより志て、六助君は、

志方家の祖となりぬ、志か志て、六助君より十三代の孫は、即ち吾々の父君なり。

吾々がなき父君は、名を之教といひ、半兵衛と稱せられ志が、性多能に志て、

吏才に富み、和歌及び書畫を好まれ、兼ねて老荘の學にも通じたまひぬ。

初め細川家は、藤孝公の古今傳により、家臣の和歌を詠するに、競ふて二條流を

學ばざるものなかりき。

弘化の頃に及び、長瀬幸室大人はじめて本居宣長の余流を汲み、歌も古體の種子を、

熊本の地にまかれ志が、幸室大人の世までは、まだ盛んならざり志なり。

幸室大人の弟子に、中島廣足大人あり、橿(樫)園と號志ぬ、此の大人は、

再び本居大平に随ひ、國學の蘊奥(うんおう)をきはめられ志のみか、殊に敷島の道

にも、あや志くたへなりければ、志の簾、または、たづか杖などの歌集、世に

出で志より、其の名は、於志照る難波の里より菅の根の長崎の港に廣がりて、

世の人々は、白縫の空に、廣足大人あり志ことを知らざるものなきにいたりぬ。

此の大人は、想々みな錦の麗質と、句々みな玉の綺才を抱かれたれば、熊本の

空に、古體の暖かなる風吹きて、美は志の色と、優志の薫りとに富みたる花を、

歌の林に綻ばされ志かば、満城風流の士は、雲の如くに蒸志、霧の如くに聚りて、

廣足大人の門に、向はざものなかりき。

此の頃吾がなき父君は、壯年に志て、風流の心にとまれ志かば、たちまち、

廣足大人の門に入りたまひ、月にあら志にひたすら、敷島の道をぞみがゝれける。

吾々の叔父と志て、殊に廣足大人にめでられ志廣川ぬ志の言に、松門ぬ志は、

いうに大人の歌の餘薫に化せらるゝまでに、すゝまれ志と。

吾がなき父君は、吏才にとまれ志かば、四十の頃より、いろ/\の役をつとめられて、

いたく風流の道に遠ざかれ志かば、和歌の數も、多からざれど、ひとひら、ふたひらの

花にても、其の薫りは、た志かにみとむるに足るべ志と思ふなり。

奥書 その2 現代語訳

我が家は、兵庫県加古川市の志方城の主であった頃は、赤松氏と名乗っていたが、細川家に

奉仕するに及び、恐れはばかるところがあって、旧城のあった地名をとって、志方氏に改名し、

乳母が携えてきた長刀は、それから伝家の宝となっていたが、惜しいことに、西郷の

乱(西南戦争)によって、戦火に遭い、今はその面影をとどめたに過ぎない。その後、忠興公の子、

忠利公が肥後の藩主になられるに及び、六助君もまた随って、肥後に向われ、家祿は、

僅かに三百石であったが、丹波より小倉を経て、肥後に随行したので、細川家にあっても、

最も長期にわたる旧臣として、特に優遇されました。こういうことで、それから、六助君は、

志方家の祖となりました。このようにして、六助君より十三代の孫は、即ち吾々の父君である。

吾々の亡き父君は、名を之教といい、半兵衛と稱せられたが、性格は多能で、

吏才(役人としての才覚)に富み、和歌及び書画を好まれ、加えて老荘の学問にも通じられた。

当初、細川家は藤孝公の古今伝により、家臣の和歌を詠ずるに、競って二條流(二条派和歌)を

学ばない人はいなかった。

弘化の時代に至って、長瀬幸室(長瀬真幸)大人(うし=貴人を敬っていう語)はじめ、本居宣長の余流を汲んで、歌も古体の種子を、

熊本の地にまかれたのが、幸室大人の世にまでは、まだ盛んではなかった。

幸室大人の弟子に、中島廣足大人がいて、橿園(樫園・かしぞの、きょうえん)と号した。この大人は、

再び本居や大平に従い、国学の蘊奥(うんおう=奥義)を極めたばかりか、殊に敷島の道(和歌の道)

にも、神秘的で不思議なほど優れているので、「しのすだれ」、あるいは、「たづか杖」などの歌集を世に

出してから、その名は、押し照る(難波にかかる語)難波の里から菅の根の(長にかかる語)長崎の港に広がって、

世の人々は、白縫(筑紫)の空に、廣足大人が居ることを知らない者はいない状態に至った。

この大人は、想々皆錦の麗質(れいしつ=生まれつきの美しさ)と、一句一句は皆、玉の綺才(奇才=優れた才能)を抱かれているので、熊本の

空に、古体(昔の様式)の暖かなる風が吹いて、美しい色と、やさしい薫りとに富んだ花を、

歌の林にほころび(綻び=変化が生じて整合性を失う)がなければ、満城風流(落ち着いた優雅な趣のある)の士は、雲の如くに蒸発し、霧の如くに集まって、

廣足大人の門に、向わない者はなかった。

この頃、吾がなき父君は、壯年になっていて、風流の心に留まってしまうと、すぐさま

廣足大人の門に入りなさって、月に嵐にひたすら、和歌の道に磨きを掛けました。

吾々の叔父として、殊に廣足大人に誉められていた廣川(高見祖厚)様の言葉に、松門様は、

言ってみれば大人の歌の余薫(よくん=先代の残した徳)に変わるまでに、進まれたと。

吾が亡き父君は、吏才(役人としての才能)に長けていたので、四十の頃から、色々の役職を勤められて、

大いに風流の道から遠ざかれていたので、和歌の数も、多くはないけれど、一枚、二枚の

花であっても、その薫りは、確かに認めるに足るべしと思うのです。

一口メモ

志方家の初代の志方十兵衛重之(六助)と、当家初代の高見権右衛門重治はいくつかの共通点があります。何れも細川忠興公に所望され、丹後以来の藩士と言う古参組に所属します。また、細川藩に加わる前は、それぞれ豊臣秀吉・明智光秀と敵対する立場にあったため改名をしています。志方家は「赤松」から城のあった地名の「志方」へ、高見家は「和田」から母方の名字の「高見」へ、小倉へ帰参の折に改名しています。 

松の落葉 その38” に対して3件のコメントがあります。

  1. サトウケイコ より:

    拝見いたしました。
    原文の写真がございませんので、
    間違っているかも知れません。
    19行目、
    知らざるものなりきにいたりぬ。
     →知らざるものな▲かりきにいたりぬ。

    と、表記されるのがよろしいかと存じます。
    奥書 その2 現代語訳では、
    「知らない者はいない状態に至った。」と、
    表記されておられます。

    いかがでしょうか。

    1. 高見洋三 より:

      サトウケイコ様
      コメントありがとうございました。
      19行目の原文は「知らざるものなきにいたりぬ」でした。当方のミスタイプでした。訂正しておきます。

      1. サトウケイコ より:

        高見様、ご確認ありがとうございます。

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