松の落葉 その37

奥書 その1 原文

松の落葉の於くがき

    世のなかは なにかつねなる あすかがわ

             きのふのふちそ けふは瀬となる

と、古の人のよみ志如く、虛蟬の世の、かはりゆくさまは、あながちに、

むか志のみかは、我々の今も於どろくまでに、かはりはてき。 今は昔志、

徳川の水のすみ志頃には、花は櫻木、人は武士とほめそやせ志武士。

かのふさ/\志たる総髪を、志ら雪の元結もてくゝり黒の五つ紋をつけたる

木綿の衣をきて、小倉の袴をはき、腰に朱鞘の大小を横へ、長閑なる春風に、

双の袖をひるがへ志、若草もゆる、野邊の縄手をあるき、櫻さく山かげに休みて

そのいさま志き姿を、朝日に匂ふ花にくらべ志、壮年の武士も、今となりては、

その俤(おもかげ)だにも、とどめずなりぬ。

かく歎く、吾々の家も、むか志は、武士のは志に加はり志が、今より五十年もすぎて、

吾々の子孫などの世にもならば、アゝ吾々江の先祖は、いづくの馬の骨にてあり

志かと、あや志むものも、あらんかと思へば、まことに、口を志の極みとやいはむ。

されば、今吾がなき父君の和歌を出版するにつけ、あらかた我が家の昔志と、

なき父君の和歌の源は、いづくより志て流れいで志かを、吾々の子孫らに、

示さまく思ふなり。

さて、我が家は、は志め、赤松十族の一に志て、昔志は、播磨の國にて、

志方の城のある志なり志も、羽柴秀吉の中國を攻るに及び、吾が高祖なり志、

右衛門の尉繁廣君は、數度の戦に刀も折れ、矢も盡き、高御位山の城を枕に志て、

空志く戦場の露と消江うせたまひぬ。

城の落ち志時に、乳母は、繁廣君の遺孤を、於のが懐に入れて、長刀杖づき、

丹羽をさ志て、落ちゆき志が、乳母の俗縁なる、或山寺の僧にたよりぬ。

世を忍ぶ身は、涙ながら、春の花にかな志み、秋の月にかこち、いたづらに、

憂き年月をすご志けるに、いつ志か遺孤も成長志て、はや十一の春を迎へぬ。

ある夜の事とかよ、十人あまりの豪盗どもは、乳母のたより志寺に亂れ入り、

寶物をいだせよと、於ど志けるに、十一になり志少年は、乳母が携へ來り志長刀を

揮ひ、またゝくまに、強盗どもを薙きたて志かば、殘り志豪盗は、少年の勇氣に

於それけむ、雲や霞とにげうせける。

このいさま志き少年の噂さは、いつとなく、よもに廣がりて、長岡忠興公に

よびいだされ、余が家臣になりてはいかにやと、のたひ(のたまひ)ければ、

このけなげなる少年は、は志めて、志方六助と名のりて、細川家に仕へぬ。

奥書 その1 現代語訳

    世のなかは なにか常なる 飛鳥川

             きのふの淵ぞ けふは瀬となる  (古今和歌集 雑下)

と、古の人が読んだように、現世の人の世の中が、変わって行く状況は、あながち、

昔だけでなく、我々の今も驚くまでに、変わり果ててしまった。 今となっては昔のことだが、

徳川時代の水の清らかな頃には、花は桜、人は武士と誉めそやされた武士。

あのフサフサした総髪(そうごう=兜の一種で、鉢に総髪状の植毛をしたもの)を、白雪の元結でもってくくり黒の五つ紋をつけた

木綿の衣を着て、小倉織りの袴をはき、腰に朱色の鞘の大小の刀を横へ、のどかな春風に、

双の袖をひるがえし、若草もゆる、野辺の縄手(田の中の細道)を歩き、桜咲く山陰に休んで

その勇ましい姿を、朝日に匂う花に比べた、壮年の武士も、今となっては、

その俤(おもかげ)すらも、とどめることが出来なってしまった。

こう歎く、吾々の家も、昔は、武士の端くれに加わっていたが、今より五十年もすぎて、

吾々の子孫などの世にもなってみれば、ああの先祖は、どこの馬の骨であるのかと、

怪しむ者も、あろうかと思えば、本当に、口惜しい極みといえるだろう。

そうすれば、今や亡き吾が父君の和歌を出版するにつけ、大体の我が家の昔しと、

亡き父君の和歌の源は、どこから流れ出てきたのかを、吾々の子孫らに、

示さなければと思ふのです。

さて、我が家は、初め、赤松十族の一つに属していて、昔は、播磨の国で、

志方の城の主であったが、羽柴秀吉の中国地方を攻るのに及んで、吾が高祖である、

右衛門の尉繁廣君は、数度の戦に刀も折れ、矢も尽き果て、高御位山の城を枕にして、

むなしく戦場の露と消え失せてしまわれた。

城の落ちた時に、乳母は、繁廣君の遺児を、自分の懐に入れて、長刀を杖代わりに、

丹羽を目指して、落ち延びたが、乳母の僧の親類である、とある山寺の僧を頼りました。

世を忍ばねばならぬ身では、涙ながらに、春の花に悲しみ、秋の月に恨みを言い、むなしく、

つらい年月を過ごしたが、いつしか遺児も成長して、早くも十一才の春を迎へました。

ある夜の事、十人程の豪盗共は、乳母の頼りにしていた寺に乱入し、

宝物を出せと、脅したが、十一才になった少年は、乳母が携えて来た長刀を

振り回し、瞬く間に、強盗共をなぎ倒したので、残りの豪盗は、少年の勇気に

恐れをなし、雲や霞と逃げ失せてしまいました。

この勇ましき少年のうわさは、いつとはなしに、四方に広がって、長岡(細川)忠興公に

呼び出され、自分の家臣になっつてはどうか、とおっしゃったので、

このけなげな少年は、初めて、志方六助と名乗って、細川家に仕えました。

一口メモ

「奥書」とは、著述の巻末に記してある筆写の年月日、書物の由来などが書かれたもので後書きのことで、この文章は編者である志方景美の兄の志方秋水によるものです。父の志方半兵衛之教(軸人)は当家十一代及び十二代と従兄弟関係にあります。

当家十代の嶋之助武棟は、志方家から養子として迎えられました。本文に記述されてるように、志方家は代々武勇に優れていたようで、当家十代も当家へ養子に来てから剣術・槍術・弓術の免許皆伝を取得しています。詳しくはこちらを参照して下さい。

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