先祖附(天保11年12月23日) その34
くずし字解読
<萬犒>厚心遠用、数年之間格別、出精以多し且、當御役茂、多年相勤 | 懸命なねぎらいの心で、数年の間、格別に精をだすことが多く、かつ、与えられた役職も、長年の間勤め上げ |
候ニ付、旁此節 恩召遠以、今迄被下置候、御足高百石、地面 | たので、この際ついでに、おぼし召しの気持ちをもって、今迄戴いた足高百石を、正式な知行 |
ニ直し、被下置旨、龍ノ口於御殿、被 仰渡候。 | として下される旨を、龍ノ口の上屋敷で、伝えられました。 |
一 同年同月同日、御裏方支配頭分職被 仰付、 | 一 同じ日(天保七年三月三日)に、裏方の総指揮者を命じられ、 |
蓮性院様、御用引除詰、被 仰付、 雅之進殿御用、遠茂兼 | 蓮性院様のご用の待機を命じられ、 雅之進様のご用をも兼任 |
相勤候様、被 仰付、白金御近習、御次御裏方支配之儀者、是迄 | するよう命じられ、白金の中屋敷のお側付、次の間に控える奥女中の指導役の立場は、これ迄 |
之通、被 仰付置旨、御達有之候。同年四月廿三日 一橋御用 | の通り変更はない旨の通達がありました。天保七年(1836)四月廿三日 に、一橋徳川家の用務 |
懸、被 仰付旨、御達有之候。 | 担当を命じられる旨の通達がありました。 |
一 同八年三月十五日 雅之進様、今度 御嫡子様之御届 | 一 天保八年(1837)三月十五日 雅之進様がこの度、嫡子様としての届け |
被遊節ニ付、御用懸被 仰付旨、御達有之候。 | をなさるので、そのご用係を命じられる旨の通達がありました。 |
一口メモ
当家の知行推移は、初代が500石、二代が100石から821石余り、三代が千石になりましたが、六代が宝暦6年(1756)の藩政機構改革の影響で50石減封、九代にしてようやく千石に戻ることが出来ました。その後十一代は病弱のため50石減封、更に十二代は文武両道叶わず50石の減封となりました。
熊本藩八代藩主斉茲公(諦了院様)がお亡くなりになられてからの九代の役職は、上記の通り用人として裏方の総責任者、蓮性院様(熊本藩九代藩主樹公の正室)のお世話、雅之進様(熊本藩十代藩主斉護公の嫡男)のお世話、白金の中屋敷のお側付と奥女中の指導役、更に一橋徳川家の用務担当等々、数多くの役職を抱えていたようです。