先祖附(天保11年12月23日) その33

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

一 同年同月十日、此節御供ニ而、御國許着之上、引返ニ、出府<被>一 天保六年(1835)十一月十日、この時に、お供として熊本に着いたら、折り返しに江戸へ出発するように
  仰付旨、御達有之候。  命じられるとの通達がありました。
一 同年同月十一日 諦了院様 御尊骸江戸表、<被遊>一 翌日に、諦了院様(八代藩主斉茲公)の御尊骸が、江戸を
  御発棺、同日御供ニ而罷立、同年十二月廿四日、御國許着仕候。  発棺なされ、同じ日にお供として出発、十二月二十四日に、熊本に到着なされました。
一 同七年正月朔日、引返ニ出府、被 仰付置候ニ付、最早落髪ニ一 天保七年(1836)一月一日、折り返し江戸へ向かうよう命じられていたので、今となっては、落髪(の状態)に
  不及候間、閑々用意、相仕舞可申旨、御達有之、同年同月十五日  関係なく、悠々として準備を終わるようにとの通達があり、一月十五日には
  御國許被差立、同年二月十四日、江戸白金御屋敷江着仕、<當>             熊本を出発、二月十四日に、江戸の白金中屋敷に到着し、
  前之御奉公、相勤申候。  当たり前の仕事を務めました。
一 同年三月三日 諦了院様、御在世中、追々長詰遠茂以多し一 天保七年(1836)三月三日に諦了院様の在世中に、時間が経つにつれて長時間にわたるお世話が多く
  御高年様之御事ニ茂、被為在候ニ付、 御奉養筋遠初、<萬犒>  また、ご高齢のことでもあったため、お世話をされる人達を始め、

一口メモ

前頁で、お供を授かった当家九代は落髪をするよう命じられましたが、この「落髪」とは一般的には髪の毛を剃り落として仏門に入ることとありますが、ここではどの程度の断髪をするのでしょうか?

大相撲の断髪式では元結いの手前ではさみを入れているようですが、当時の武士の頭はいわゆる大銀杏(おおいちょう)と呼ばれる髷(まげ)を結い、おでこは月代(さかやき)と言って頭を剃っていました。

件の眞藤國雄氏のブログ「津々堂のたわごと日録」に関連記事がありましたので、ご本人にお尋ねしたところ、下記の回答を戴きました。

随分以前ですが、熊本史談会に於いて同様の話が取り上げられました。
当時、荒尾史談会の会長をして居られた下津氏(下津棒庵のご子孫・分家筋)が語られた話ですが、
その話の当時、殿様が亡くなられた直後で侍は落髪している最中、「遊行上人」が熊本入りされるという報が入り「見苦しい様」をしているからお迎えも儘ならぬと大いに迷惑に思われたという話です。
荒尾は「南関」関所の隣町ですから、このような資料が残っていたようです。
落髪とは、「元結を切り大童(おおわらわ)として服喪の期間中は月代を剃らないこと」だと説明がありました。
遊行上人は幕府公認で全国各地を勧進していたと言いますから、藩の重役はそれなりに接待の追われたよう
ですが、「大ざんばら」の姿だったのでしょうか。熊本では阿弥陀寺に投宿したようです。
その後、これらのことがしっかり書かれた資料を探し回りましたが、未だ発見に至りません。
高見家史料のような落髪の記録はあまり見かけたことがありません。
先の話と併せて考えると、もう月代も反り上げられて髪も結い上げ、元のお姿に戻られていたという事になります。

元結いは2カ所ありますが、髷の奥の元結いの部分の髪を切り、ざんばら髪の状態で江戸を出発し、熊本から出府するまで、60日以上経過していますので、上記の通り、元の大銀杏の姿に戻っていたと言うことになるようです。

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