先祖附(天保11年12月23日) その32
くずし字解読
一 同年十月十六日、用意濟次第、早々出府、被 仰付旨、<御達> | 一 天保四年(1833)十月十六日、用意が済んだら、すぐにでも江戸へ行くように、との |
有之、同十八日、御國許被差立、同十一月十三日、江戸白金御屋敷江 | 通達があり、同十八日、熊本を出発、十一月十三日、江戸白金の中屋敷に |
着仕、當前之御奉公、相勤申候。 | 到着し、決められた仕事を務めました。 |
一 同五年四月十四日、沢村八郎左衛門、御國許江、休息中 | 一 天保五年(1834)四月十四日、沢村八郎左衛門が、国許へ休息中 |
蓮性院様、御用兼、相勤候段、被 仰付旨、御達有之候。 | 蓮性院様のお世話につても兼任するように、との通達がありました。 |
一 同年十二月十三日、沢村八郎左衛門、御國許江、休息中 蓮性院様御用 | 一 天保五年十二月十三日、沢村八郎左衛門が国許で休息中、 蓮性院様のお世話 |
兼、相勤候様、被 仰付置候處、被遊 御免旨、御達有之候。 | を兼ねるように、と命じられていましたが、これが解けられるとの通達がありました。 |
一 同六年十一月朔日 少将様、御遺骸、御國許江、<被遊> | 一 天保六年(1835) 十一月一日 少将様(細川斉茲公)の、ご遺骸を熊本に、 |
御下候ニ付御供被 仰付旨御達有之候。 | 移られるので、そのお供を命じられる旨の通達がありました。 |
一 右同日、落髪、被 仰付旨、御達有之候。 | 一 同じ日に、その時は、髪を切り落とすようにとの通達がありました。 |
一口メモ
蓮性院様(亡き十代斉樹公の正室)のお世話をされていた沢村八郎左衛門は、眞藤國雄氏の「肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳」によると、次の様な記述がありました。
6、才七郎(養子 実・田方為助弟) 御番方・松下清蔵組 千四百石・内三百石沢村宇右衛門分
文化八年三月名跡相続・千五百石、番方、物奉行、比着座、留守居番頭
弘化二年五月致仕
天保三年六月(比着座)~天保六年十月 留守居番頭
細川斎樹公御書出(文化九年)千四百石
細川斎護公御書出(文政九年)線四百石
8代諦了院様は、天保6年(1835)10月23日の満年齢76歳でお亡くなりになりましたが、当家九代は文政10年(1827)3月の出府以降8年にわたりお側に仕えるケースが多くなりました。この関係から、公のご遺骸を国許の熊本までお届けする大役を仰せつかった様です。