先祖附(天保11年12月23日) その27

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

  御発駕、御道中筋、御用人之諸勤、相勤、同年六月  出発されて道中の用人としての諸々の仕事を勤め、文政七年(1824)六月
  十七日、御供ニ而着仕、當前之御奉公、相勤申候。  十七日に、お供として到着、当たり前の仕事を務めました。
一 同八年八月七日、出府被 仰付 御発駕、御同日一 同八年(1825)八月七日、江戸に行くことを命じられ、同じ日に
  被差立旨、御達有之候。同九月二十五日<被遊>  出発するよう通達がありました。同九月二十五日に
  御発駕、御道中筋、御用人之諸勤、御本陣御番等  お殿様は出発なされ、道中は用人としての諸々の勤めや、本陣での護衛などを
  相勤、同年十二月二日、江戸江、被遊 御着座、同日<江>  勤め、同年十二月二日に(お殿様は)江戸にお着きになられ、(当家九代は)同じ日に
  戸着仕、當前之御奉公、相勤申候。  江戸に到着し、当たり前の仕事を務めました。
一 同九年二月十二日 諦観院様、被遊 御逝去一 同九年(1826)二月十二日に 諦観院様(九代藩主細川斉樹公)が,お亡くなりに
  候ニ付、翌十三日 御送葬并御法事、御用懸<被>  なりましたので、翌日の十三日に、ご送葬とご法事のご用を
  仰付旨、御達ニ相成居候處、同二月十八日、右御用懸  命じられるよう通達があり、待ち構えていたところ、二月十八日になって、このご用は

一口メモ

当家九代は、文政3年以降の細川斉樹公の江戸から熊本への就封のお供を3回続けて務めましたが、文政8年の参勤もお供をしています。件の右山幸介氏の資料によると、参勤の途中斉樹公は体調を崩し、東海道の関宿で10月20日から11月12日迄休養されました。上記に「御本陣御番等相勤」とありますが、正にその証と言えます。このため参勤の所要日数は、通常35日前後のところ、66日間にも及び、斉樹公は大変な苦労をされたと推測され、翌年の2月22日の御逝去に繋がったようです。

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