先祖附(天保11年12月23日) その26

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

一 同年十月十日、来年 御参勤之御供<被>一 文政五年(1822)十月十日、来年の参勤交代のお供を
  仰付旨、被 仰出候。  命じられることを仰せいだされました。
一 同六年二月十三日、濱町、御誕生、御用受込<被>一 文政六年(1823)二月十三日、濱町の下屋敷で、お誕生のご用を引き受けるよう
  仰付旨、御達有之候。同年三月二十一日 耇姫様<御誕>  命じられる旨の通達がありました。同年三月二十一日 耇姫(こうひめ)様の
  生、御用受込、相勤候ニ付、被遊 御祝、御紋附御小袖<被>  お誕生のご用を受入れて勤めたので、お祝い遊ばされ、御紋附の小袖を
  下置候。同年三月二十七日、熊本被遊 御発駕、御供ニ而  下さいました。同年三月二十七日、(斉樹公が)熊本を出発され、お供として
  罷立、御道中筋、御用人之諸勤、相勤、同年五月六日、御供  出発し、道中での用人としての仕事を勤め、同年五月六日、お供
  ニ而、江戸被着仕、當前之御奉公、相勤申候。  で、江戸に到着、当たり前のご奉公を勤めました。
一 同七年正月二十七日、當年 御帰國之御供<被>一 文政七年(1824)一月二十七日、今年お殿様の熊本への帰国のお供を
  仰付旨、御達有之候。同年五月十五日、江戸<被遊>  命じられる旨の通達がありました。同年五月十五日、江戸

一口メモ

耇姫様は、熊本藩八代藩主斉茲公の最後の姫であったが、残念ながら3歳10ヶ月でお亡くなりになられました。この辺の事情は、件の眞藤國雄氏のブログ「津々堂のたわごと日録」で、多方面にわたり詳しく紹介されていますが、要約すると耇姫様は文政6年2月14日に熊本の本山の御屋形(文化13年に斉茲公が建設した)で誕生、斉茲公は文政3年の4月に江戸より熊本に就封され、耇姫様を溺愛し、自ら耇姫像の模写絵を残していること。耇姫様は年若いにもかかわらず際立つ聡明さと、幼いながらも周囲を思いやる貴人の風格が窺え、狂言に特に興味を示し、それをまねて近習を和ませたこと。僅かに3歳と7ヶ月で突然、死に至ったようです。齊茲公は、耇姫様なきあとの悲しみを振り切るように、文政10年(1827-68歳)3月、七年に及ぶ国許住まいから江戸へ再び旅立っていった。以降「濱町様」から「少将様」と呼称せしめた。詳細は下記リンクを参照下さい。

「梅の薫」耇姫様のこと(一)

「梅の薫」耇姫様のこと(二)

「梅の薫」耇姫様のこと(三)

「梅の薫」耇姫様のこと(四)

「梅の薫」耇姫様のこと(五・了)

耇姫様のこと・付けたし

耇姫さまは御祖父似?

狂言「瓢の神」「花折」

斉茲の時代

文政9年祝能と浜町様の晩年

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