先祖附(天保11年12月23日) その22
くずし字解読
着仕、當前之御奉公、相勤居申候處、同年閏八月二十八日 | 熊本に到着し、当たり前の仕事を務めていたところ、文化十三年(1816)閏八月二十八日 |
御役不呑込ニ付、御断之願、差出申候処、願之通<被遊> | 勤務内容が理解できないので役職を辞退したいと願い出たところ、願いの通り |
御免、大組附、被 仰付、座席元之通ニ、被附置、松井直記 | 役職が解かれ、大組附を命じられ、座席は前の通りに置かれ、松井直記 |
組、被 召加候。 | 組に召し加えられました。 |
一 文政元年三月二十五日、御用人被 仰付、御役料米並之 | 一 文政元年(1818)三月二十五日、御用人を命じられ、手当は知行並みの |
通、被下置旨、御用番、被 仰渡候。同年七月當秋<出> | 通り頂ける旨を、当月の担当者に知らされました。同じ年の七月には、この秋に |
府被 仰付、用意済次第、此元被差立旨、御達有之 | 江戸に出ることを命じられ、準備が済み次第、熊本を出発する旨のお達しがあり、 |
同八月二十二日、此許被差立、同九月二十八日、江戸龍ノ口<御屋> | 同八月二十二日に、熊本を出発、同九月二十八日に、江戸の龍ノ口の |
敷江着仕、御用人之諸勤、相勤申候處、同年十月五日 | 上屋敷に到着し、御用人の諸々の仕事を勤めていたところ、同年十月五日 |
座席、堀尉左衛門上座、被 仰付旨、龍口於御家老間、 | 座席は、堀尉左衛門の上座に付くようにとの旨を、龍ノ口上屋敷の家老の間に於いて |
一口メモ
家系図や先祖附等に、度々「座席」という言葉が登場しますが、細川藩では、これは役職の序列として使われているようです。上の三行目に「座席元之通」とありますが、これは役職が変更になった場合に「序列は前と同じ」という意味のようです。また十行目に「座席堀尉左衛門上座」とありますが、これは「序列は堀尉左衛門の上位」ということになります。
又、「座席桟敷番頭」は「序列は番頭の最上位」、「中着座同列」は「中着座という役職と同じ序列」、「座席組外同列」は「組外という役職と同じ序列」、「座席御留守居大頭同列」は「御留守居大頭という役職と同じ序列」という意味で、いずれも当家九代の先祖附に登場してきます。
尚、細川藩士の役職については、こちらを参考にして下さい。
三行目の「松井直記」については、眞藤國雄氏の「肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳」によると、つぎのような記載があります。
5、直記・誠之(養子 実・長岡主水営之三男 亘)
完成十三年十二月名跡相続 四百石減知三千二百石
比着座・用人・大目附・中老職・家老職・大番頭
天保六年閏七月先知之通三千六百石 天保八年十一月歿(六十五歳)
文化五年十一月~文化八年四月 大御目付
文化八年四月~文化十年十月 中老
文化十年十月~文政五年一月 備頭大頭
文化十年十月~天保八年十一月(病死)家老
細川斎樹公御書出(文化九年)三千二百石