先祖附(天保11年12月23日) その21

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

  同十一年二月、長尾安右衛門与、交代被 仰付、三月朔日  文化十一年(1814)二月、長尾安右衛門と交代を命じられ、三月一日
  長崎表、致出立、同月九日、御國許江、着仕、御使番、當前  長崎の詰所を出発し、ニ月九日に熊本へ到着、使番としての
  之御奉公、相勤居申候処、同年同月十四日、奥田権之允跡  仕事に就き、勤めていたところ、同じニ月の十四日に、奥田権之允の後任として
  御中小姓頭、被御役料米並之通被下置旨、御用番<被>  中小姓頭を、その報酬として知行並の通りに下さる旨を、当月の担当者
  仰渡、即日ゟ、諸勤績相勤申候。  にその命令が伝えられ、その日からその業務を遂行しました。
一 同十一年十月朔日、御用人被 仰付、御役料米並之通一 文化十一年(1814)十月一日、には用人を命じられ、その報酬は知行並みに
  被下置、同年同月二十二日、来年出府被 仰付旨、御達  下されるとのことでした。十月二十二日、来年には江戸に出向くようにとの通達が
  有之、同十二年正月十五日、茲許被差立、同二月二十一日<江>  あり、翌年の文化十二年(1815)一月十五日に、熊本を出発、二月二十一日には
  戸龍ノ口、御屋敷江着仕、御用人之諸勤、相勤申候。  江戸龍ノ口の上屋敷に到着し、用人の諸々の仕事を勤め上げました。
一 同十三年三月十一日、江戸表被差立、同四月九日、御國許江一 文化十三年(1816)三月十一日には、江戸の詰所を出発、四月九日に、熊本に

一口メモ

当家九代の數衛政久は、七代の実子でしたが、幼少であったため八代を養子に迎え、その八代右源太政信の養子となり、21歳の時に九代を継ぎました。

この九代の初期の役職をたどると、最初は当家の四代・五代・六代と同じ「大組附」から始まり、その後は僅か9年のうちに、「御使番」、「長崎御留守居」、「御中小姓頭」を経て、いよいよ「御用人」の役職を得て、江戸に赴きます。

この「御用人」とは、 【江戸時代、幕府・諸大名・旗本諸家の、主君に近侍して、財政をはじめ庶務にあずかり、枢機に参画した人。また、その職名】とありますが、当初の1年間はお殿様(熊本藩九代の細川斎樹公)が居住する龍ノ口の上屋敷に勤務しました。

ところが、一年後に熊本に戻った折に「御用人」の役割が良く理解できないということで、お断りを入れたところ願いが叶い、役職は振り出しに戻り、「大組附」になってしまいます。この原因を考えるに、「御用人」の仕事の内容について、江戸と熊本との落差が大きすぎた事による不満ではないかと考えます。その根拠として、「大組附」の担当から1年6ヶ月後に再び「御用人」を命じられ、4ヶ月後には江戸に向かっている事実があります。

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