先祖附(天保11年12月23日) その20

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

一 同六年六月四日、犬追物、追廻騎射稽古、数年心懸厚一 文化六年(1809)六月四日、犬追物という弓術の作法の稽古で、数年にわたって懸命に
  致出精候段、<達>  努力したことは
  尊聴候処、心懸直儀与、被 思召上、御紋附御上下  皆から尊敬されるに値しすると、お殿様がお考えになり、御紋附の裃を
  被下置候。  下さいました。
一 同九年八月二十三日、今度一 文化九年(1812)八月二十三日、今の度の
  御城御禮、相勤候ニ付、御紋附御上下、同御帷子、被下置候。  お城の節句等の礼式を勤め上げたので、御紋附の裃と帷子を頂きました。
一 同九年十一月二十八日、長崎御留守居、被 仰付、座席一 文化九年十一月二十八日、長崎での留守居を命じられ、座席は
  掘内諸兵衛、上座ニ、被 仰付候。  掘内諸兵衛の上座に付くよう命じられました。
一 同十年三月四日、此許被差立、同月十四日、長崎表江着、<長>一 文化十年(1813)三月四日、熊本を出発し、同じ月の十四日に、長崎の詰所に到着し、
  尾安右衛門与、交代相済、御留守居之諸勤、相勤居申候処  長尾安右衛門と、交代を済ませ、留守居役の諸々の仕事を勤めあげていたところ、

一口メモ

文中に「犬追物追廻騎射稽古」とありますが、これは鎌倉時代から伝わった弓術の作法の一つですが、この江戸時代中期にまで継承された藩は、細川、島津、小笠原藩だけだったようです。詳しくは、こちらをご覧下さい

眞藤國雄氏の「肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳」によると、長尾安右衛門は次の様に書かれています。

6、平大夫(安右衛門)  
               五百石当時四百五十石
               長崎聞役(文化五年頃)

ここには長崎聞役とありますが、これは熊本藩が長崎の大黒町に蔵屋敷を構え、一年中長崎に詰める「定詰」として他の近隣五藩と共に、情報収集・交換や各藩との相互調整を行うための役職です。長尾安右衛門は、文化五年頃から長崎聞役として定詰していたようで、当家九代は、1年間だけ長崎聞役を勤め上げ、元の長尾安右衛門にバトンタッチしています。

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