先祖附(天保11年12月23日) その18

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

  御目見、御元服、御婚禮御祝、御用、相勤候ニ付、十二月  (若殿様の)お目見(謁見)や元服、婚礼のお祝いについてのご用を勤めたので、十二月
  朔日、御紋附御上下、同御小袖、被為拝領候  一日、ご紋附の裃、と小袖を拝領しました。
一 同三年二月二十一日、出府被 仰付、三月十八日、江戸表江一 享和三年(1803)二月二十一日、江戸に出府するよう命じられ、三月十八日、江戸藩邸に
  着仕、當前之御奉公、相勤居申候処、文化元年二月  到着、あたりまえの奉公を勤めていたところ、文化元年(1804)二月
  七日、當秋迄、御留人、被 仰付、相詰居申候處、<同>  七日、この秋まで留まるよう命じられ、職務に就いていたところ
  九月十七日、江戸表被差立、十月二十一日、下着仕候。  九月十七日に、江戸藩邸を出発し、十月二十一日に熊本に、戻ってきました。
一 文化二年二月四日一 文化二年(1805)二月四日
  御参勤之御供ニ而、熊本罷立、中國路、東海道<無懈>  お殿様の参勤交代のお供として、熊本を出発、陸路の西国街道、東海道を
  怠相勤、三月十四日、江戸江着仕、同十五日ゟ、於江戸、當前  怠りなく勤め、三月十四日、江戸に到着、翌十五日から江戸で、あたりまえの
  之御奉公、相勤居申候處、六月十一日ゟ相煩、七月八日  仕事を、勤めていたところ、六月十一日から病気にかかり、七月八日に(病死しました)。

一口メモ

当家の当主は、初代が小倉で亡くなりましたが、墓所は不明です。二代から七代までは、熊本の西区にある、妙立寺に葬られましたが、この八代と九代は江戸で亡くなっているため、墓所は藩邸の中屋敷の北に位置する功運寺でした。この寺は移転・合併し、現在は東京都中野区の「萬昌院功運寺」として継承されたため、残念ながら墓は確認できていません。

尚、この八代の右源太政信は、郡織衛家よりの養子で、23歳で家督を相続しましたが、僅か41年の生涯で、在職期間は18年でした。

郡織衛は、眞藤國雄氏の「肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳」によると、次の通りの記載があります。

4、織九郎・眞峯(織衛) 比着座 千八百石 宝暦八年寅十月廿三日
          宝暦八年家督 弐百石減千八百石 小姓頭
          明和七年正月ニ十五日江戸歿・三十八歳
            明和三年八月~明和七年一月(病死)小姓頭

この祖は、細川藤孝公の兄の三淵藤英で、大変由緒のある家柄のようです。

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