先祖附(天保11年12月23日) その17

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

  享和元年二月十一日、出府被 仰付、同三月六日  享和元年(1801)二月十一日、江戸に出向くよう命じられ、同三月六日
  江戸被着仕、御使番之諸勤績、當前無懈怠、相勤<居>  江戸に到着し、使番としての役職を当たり前に怠りなく勤め上げて
  申候処、同二年四月二十三日、江戸表被差立、同五月五日  いたところ、享和二年(1802)四月二十三日、江戸の藩邸を出発、五月五日
  下着仕、即日ゟ御使番之諸勤、相勤居申候処、同七月  熊本に到着、その日から使番の諸々の仕事を勤めていたところ、七月
  二十八日、於 御花畑、佐藤仙九郎殿、御中小姓頭<被>  二十八日、花畑(熊本藩の大名屋敷)で、佐藤仙九郎殿(五百石外ニ百御足)から、中小姓頭を
  仰付、御役料、米並之通、被下置旨、御用番<被>  任命され、報酬は知行高並の通り下さるとの旨を当月の担当者が
  仰渡候  伝えてきました。  
一 享和二年十月十一日一 享和二年(1802)十月十一日
  少将御辞任  少将様(熊本藩主八代細川斉茲公)が辞任され
  若殿様  若殿様(熊本藩主九代細川斉樹公

一口メモ

文中に「少将」とありますが、これはいわゆる官位(官職名と位階)の官職名に当たります。徳川家康は「禁中並公家諸法度(公家諸法度)」なる制度を定めましたが、この中で公家とは別に武家に対しても官位が定められました。

細川氏の官名は、越中守、肥後守(会津が不使用の時のみ)、左近衛権少将、侍従等ですが、ここから八代藩主の斉茲公は少将様と呼ばれました。その位階は従四位下侍従・賜諱ですが、このほかに肥後熊本藩の国主としての格式は大身国持大名です。

「少将御辞任」とありますが、これが若殿様が元服されたことに因るものかどうかは判りませんが、気になる史実があります。

細川斎茲公は、寛政4年(1792)4月に雲仙岳の火山性地震による眉山の山体崩壊と、それに伴う大津波の発生(島原大変)のため熊本に大きな損害(肥後迷惑)が発生し、その救済のために藩札(銀札)を発行しました。元々財政面で逼迫していた状況の中での発行であったこともあり、うまく運用できず、享和2年(1802)には御銀所騒動と呼ばれる藩政抗争が起こっています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です