先祖附(天保11年12月23日) その15
くずし字解読
失ニ付、早打之御使者、被 仰付、同六日被差立、道中十四日 | <焼>失したので、急を知らせる使者を命じられ、十月六日出発し、道中は14日 |
之日数ニ而、同月十九日、江戸龍ノ口御屋敷江、着任 | の日数で、十月十九日、江戸の龍ノ口上屋敷へ着きました。 |
御城繪図、持参仕候。即刻、於表海之御間 | お城の絵図を持参しました。即刻、正面の海の間の |
御前江、被 召出、御使者勤相濟、同二十九日江戸表、直ニ而 | 御前に、召し出され、使者の勤めが済み、同二十九日江戸を、直ちに |
被差立、十一月二十三日着仕、當前/\諸勤績、相勤申候。同十年 | 出発し、十一月二十三日に熊本に着きました。至極当たり前の勤めとして、実行しました。寛政十年(1798) |
二月二十八日、為 御留守詰、被差立、三月二十七日、江戸被着 | 二月二十八日、留守詰の仕事のため出発、三月二十七日、江戸に着き、 |
仕、即日ゟ諸勤相勤、居申候處、四月二十二日、御留守居助勤 | その日から色々の仕事をしていたところ、四月二十二日、留守居の補佐役を |
被 仰付、於 御城、月次御進上三季<御進> | 命じられ、江戸城で月毎の献上や、年頭・八朔・歳暮の三季の |
還、御伺 御機嫌之御使者、其外御老中様、<諸> | 進物のやりとり、ご機嫌伺いの使者や、その他老中様や |
御役人中様江、御届、神田御門詰等、相勤居申候處 | 諸々の役人方へのお届け物の世話や神田橋の御門詰など、勤めていたところ |
一口メモ
当家八代は29歳の時に、使番(戦時には伝令・巡察などに当たったが、平時には諸国の巡察や用地への出張を任務とする)を任命されて、その4年後の33歳の10月に八代城が焼失してしまい、当時江戸に滞在中の熊本藩八代藩主の8代細川斉茲(諦了院様)公 に、その報告をするために使番の大役を果たしました。熊本から江戸まで、馬や駕籠を走らせて、僅か14日間で到着しました。このルートは、仮に熊本から江戸の日本橋までの陸路と仮定すると、全体の距離数は、1,242kmとなります。
この経路は、熊本市中央区鍛冶屋町を起点として、豊前街道(筑前町朝日まで105km、門司まで181km)、西国街道(赤間関から京都羅城門まで567km、三条大橋まで573km)、東海道53次(三条大橋から日本橋まで488km)合計1,242kmの内訳です。
関門海峡を船で渡るため、14日の内の1日を充当すると、1242÷13=95.5kmで、一日当たり95km進んだことになり、1日8時間の移動時間とすると、平均時速は、約12kmとなります。一般的に早馬は時速15km、早駕籠は時速6kmと言われています。従ってこの旅程は無理のないところと言えそうですが、天候や本人の体調などを考慮すると、やはり相当きつい旅程だったと思われます。