先祖附(天保11年12月23日) その14
くずし字解読
居申候處、同二年五月十一日、交代相濟、江戸表被差立 | (勤めて)いたところ、寛政二年(1790)五月十一日に引き継ぎが済んだので、江戸を出発し |
六月十四日二御國許被着仕候。同十五日ゟ組並之御奉公 | 六月十四日に熊本に着きました。翌十五日から組に与えられた仕事を |
當前、無懈怠相勤申候処、寛政五年六月十七日<於> | 当然、怠りなく勤めていたところ、寛政五年(1793)六月十七日 |
御花畑、御使番被 仰付、御役料米並之通、<被下> | 御花畑に於いて、使番を命じられ、御役料は米並の通りに、 |
置旨、御用番被 仰渡、即日ゟ御使番之諸勤稜 | 下される旨を、当月の担当者が聞かされ、その日から使番の諸々の仕事を |
相勤居申候処、寛政七年二月二十五日、為 御参勤 | 勤めていたところ、寛政七年(1795)二月二十五日、参勤交代のために |
被遊 御発駕、御供申上、御道中筋御使者并御 | お殿様が出発なさるので、そのお供を申しげ、道中筋の使者や |
取次等相勤、四月二日江戸表江、被遊 御着座、即日 | 取次などを勤め、四月二日に江戸表に着任し、その日 |
ゟ諸勤相勤居申候処、同八年四月十一日、江戸被差立、<同> | から諸々の仕事を勤めていたところ、寛政八年(1796)四月十一日、江戸を出発、 |
五月十九日下着仕候。同九年十月二日、八代御城、焼 | 五月十九日に熊本に戻りました。寛政九年(1797)十月二日、八代のお城が、焼 |
一口メモ
四行目に「御役料」とありますが、これは諸手当と言えるものです。この時代の武士の給金は、一般的に禄高、いわゆる石高(基本給)と御役料から構成されるようです。
ここでは、「御役料は米並み」とありますので、基本給と同じ程度の手当が貰えるということのようです。
当家八代は、900石でしたが、これが全て個人の収入となる訳ではなく、その役職を勤める為の経費負担も含まれ、家全体の維持の為の費用や、家士(その藩士が雇用者となる武士)、中間・女中などを抱えなければならず、馬や武具への支出も多くあり、それほど豊かであったとは思えません。
石高の目安として、農地一反は1石の米が収穫されると見なされ、900石は900反の知行地を持ち、この収穫量の40%つまり360石が年貢となり、基本給となるわけです。当時の米1俵は地域によって異なりますが、熊本の場合は幕府と同じ3.5斗でしたので、360石は3,600斗つまり1,000俵余りになります。