先祖附(天保11年12月23日) その11
くずし字解読
高曾祖父権右衛門、家督被為拝領、大組附被 | 祖父の祖父である権右衛門(当家六代)は、家督を拝領なされ、大組附を |
仰付、有吉市左衛門組二、被 召加、組並之御奉公 | 命じられ、有吉市左衛門の組に加えられ、組相応の奉公を |
相勤居申候処、明和三年九月、田中三平次跡、<御鉄炮> | 勤めていたところ、明和三年(1766)九月、田中三平次の後任として、 |
三拾挺副頭被 仰付、相勤居申候処二、同六年三月 | 鉄炮三拾挺の副頭を命じられ、勤務していたところに、同六年(1769)三月 |
堀尾茂助跡、御鉄炮拾挺頭被 仰付、氏家甚左衛門 | 堀尾茂助の後任として、鉄炮拾挺頭を命じられ、氏家甚左衛門 |
組ニ、被 召加、相勤居申候處、安永四年閏十二月、<病死> | の組に、加えられ、勤務していたところ、安永四年(1775)閏十二月、 |
仕候 | 病死しました。 |
一 私曾祖父、高見権之助儀、安永五年三月、高曾父 | 一 私の祖父の父である、高見権之助(当家七代)は、安永五年(1776)三月、祖父の祖父 |
権右衛門跡目之、御知行、家屋敷、無相違、被為拝領候。<御番> | 権右衛門の跡目、つまり知行、家屋敷は間違いなく拝領されました。 |
方江、被 仰付 松野外記組被 召加組並之 | 番方に命じられ、松野外記の組に召し加えられ、組相応の |
一口メモ
当家六代が家督を相続した前年は、熊本藩六代藩主の細川重賢公(霊感院様)が藩政機構改革を打ち出しましたが、この影響か家督を相続した段階で百石の減封となりました。藩政機構改革の内容につきましては、明治42年に発行された宇野東風著の「細川霊感公」に詳しく書かれています。国立国会図書館デジタルコレクションの222頁(136コマ)の一部を抜粋します。「政府にては父の功労と、子孫の材能とを商量し、其の抜群の者には、禄を減ぜず、然らざるものは、父千石の所領ならば、子に九百石、或いは八百石に減じて、賜ふ例となれり・・・」
文中に「有吉市左衛門」とありますが、眞藤國雄氏の「肥後細川藩・拾遺:新・肥後細川藩侍帳」には次の通りの記載があります。
4、市左衛門・時包(後・時国 初・清紀)
享保十年家督、着座、城代、備頭 安永三年十月隠居 室・長岡岩之助女ツレ
又、同様に「田中三平次」は、次の記述があります。
5、三平次 三拾挺添頭 八百石 宝暦十一巳二月廿五日当役
更に、「堀尾茂助」は、次の通りです。
4、茂助(夫右衛門)
千石 拾挺頭 宝暦十一巳十一月十四日当役 帯刀先生吉晴ヨリ出 (堀尾吉晴)
安永二年三月(二拾挺頭)~安永八年十一月 八代番頭
初・茂助、安永六年一月改名
又、組頭である「氏家甚左衛門」は、次の様な記載があります。
6、甚左衛門・頼弼(金太郎、宮内)
寛延四年家督、着座、上着座、側大頭、備頭 安永九年四月廿三日歿・六十一歳
この有吉市左衛門の二代前の「市左衛門・重長」は千石加増で、三千石の知行を得ています。同様に、「氏家甚左衛門」の家系は細川藩の上着座上席で、同様に三千石の知行を得ています。
当家七代の最初の上士である「松野外記」は、次の様に紹介されています。
7、新太郎(外記) 御留守居大頭 千八百石外二百石御足
安永二年二月(上着座)~天明元年八月 番頭
安永四年十月~安永五年十月 鶴崎番頭
天明元年八月~寛政元年三月 御留守居大頭
寛政元年三月~寛政五年二月 大御目付
寛政五年二月~文化五年七月 中老
文化五年七月~文化八年十月 備頭大頭