高見君権右衛門墓碣銘 その5

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3020

書き下し文と解釈

<公事有と呼ば>則一喀(いっかく)して起つ、事視ること平時に異らず已(すでに)畢(おわり)て初の如臥すこと故に人仕事があると呼ばれれば、(酒を)吐き出して、起き上がって仕事をるのは、いつもの通りと何ら変わらない。仕事が終われば、もとの通りに寝るので、人々は
其飲に服す。然れども亦是を以て、疾(しつ)を得、医杯を禁ず。  公之を聞て嘗て(なめて)<於冬>飲酒を黙認する。しかしながら、これを何度も繰り返せば、病気になってしまう、ということで、医者は飲酒を禁じた。  殿様はこれを聞いて、試してみる。
冬日に於て、便服(べんぷく)を製して、之を賜て曰く、酒杯に以て換るに暖を取に足る。人皆な之を栄とす。<娶>ある冬の日に、ふだん着を造り、殿様から、これを戴いて言うことに、暖を取るには、飲酒で十分だと。人々は皆な、これを威勢が良いとだとした。
須佐美氏を娶(めと)る、須佐美氏、家を治る厳正極て規度有り、君と雖ども、亦須佐美氏から嫁をもらう。須佐美氏の家柄は、極めて厳正で、それは手本となるようなものだ。君といえども、又
之を敬畏(けいい=心からうやまう)す。女某を生り、志方氏の子武棟を養て、嗣(し=跡継ぎ)と為し、之に配す。<武棟>この家柄を心からうやまう。娘の美知を生んで、志方氏の子の武棟を養子に迎えて、跡継ぎとして、この家に迎える。
今小姓頭と為る。将(まさ)に君の墓に銘せんと、文を介々に属す、<辞非其>武棟は、今、小姓頭になっている。まさに、ここにおいて君の墓に、文を媒介として、碑銘を残そうと取り持ち、
其人に辞れざるときを獲ず。則、退て窃(ひそか)に以(もって)、謂(いい)をり。 諦了公、これ徳の英、且つ明なる君その人から離れることで得ることができた。つまり、「亡くなってひそかに」という意味である。 諦了公のいうことには、この人は徳が秀でている、しかも明晰な君
の知を受る、固(かたくな)に宣なり。遭遇(そうぐう)の際に、久して愈々、渥(あく)始終一の如し。の知識をそのまま受けて、その趣旨を変えずに広く行き渡らす。偶然に巡り会った時から、長い間に益々親しさが増し、それは一貫して変わらなかった。

一口メモ

上記4行目に「須佐美氏」とありますが、これは須佐美素雄氏のことで、眞藤國雄氏の「新・肥後細川藩侍帳」によると、次の様に記述されています。

九郎兵衛(素雄) 大組附 五百石 川尻御町奉行
                 寛政元年三月(大組附)~寛政五年四月 川尻町奉行
                 寛政五年一月~寛政十年九月 中小姓頭
                     寛政七年一月素雄ト改名
                 寛政十年七月~寛政十二年九月 小姓頭
                 文化五年十月~文化八年八月   小姓頭
         須佐美素雄 肥後藩に仕へ、小姓頭及び中小姓頭を勤む。禄五百石、頗る豪邁の士なり。
                 文政三年六月七日没す。享年五十六。墓は中尾本妙寺中浄明院。

又、その娘みち、について、系図九代(朱書き部分)には次の様な記載があります。

天保十一年二月四日 高見権右衛門妻。右は家内熟知ニ有之、夫へ事方直、数年之留守中。世話筋も行届召仕の者へも慈愛を加候様子、委達。尊徳奇特の儀に被 思召上候、此段一戸写旨被。仰出候。右は御用人月當、永田内蔵次置に、おゐく書附被相渡候。

お殿様が発言した内容を、おゐくが書きとどめ、それを御奉行副役の永田内蔵次経由で受け取ったものと思われます。内容は、「しっかりと家史に書き留めて、おきなさい」ということの様です。 

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