高見君権右衛門墓碣銘 その4

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3020

書き下し文と解釈

<者を>一國皆な曰く、高見君と已(すで)にして命出づ、果して君を以て 世子伝と為し藩中の人々が、皆な言うことには、高見君しか、いないとして、すでに決まったようなものだとしたが、思った通り、君をもって、世継ぎの指導者となり、
班を進て、留守居大頭に列す。啓導すること僅に二年。<天保十一年十>席次を進めて、留守居大頭となった。わからないことを教えて導くこと、わずかに二年。
二月二十三日を以て、扈従(ごじゅう)して、隊に在り、暴疾して路に倒る。之を扶(たすけ)れば、既に起たらず。天保11年12月23日に、若君のお供として、その一隊にいたとき、いきなり道路に倒れてしまった。これを助けようとしたが、既に起き上がることは、できなくなっていた。
年享(うけ)る、五十有六。五官を経へ 三公に歴事す。国家に勤労すること<三>享年56歳。五つの重要な職歴を経て、細川藩主三代に仕え、国家に尽くす事
三十二年以て卒す。銀邸の北功運寺に葬る。釈氏諡して<曰く真>32年を以て、白金中屋敷の北にある功運寺に葬られた。釈氏諡(しゃくしし=死後に奉る生前の事績への評価に基づく名=中国での戒名)は次の通り。
真龍と曰く、君状貌(じょうぼう)雄偉(ゆうい)にして、懐抱(かいほう)犖々(らくらく)たり。官に在る、能く吏胥(みな)を愛恵して、真の龍と言われ、君の容貌は、たくましく優れており、ある思いや計画などを、いつも心の中に持ち、他者より抜きん出て優れていた。公の仕事に就いている時は、役人皆を恵愛して、
私請を貸さず、恩遇(情け深いもてなし)益々隆して、毫(ごう=少しも))も驕矜(きょうきょう=おごり高ぶる)の色無し。家に居る<倹>自分のための頼み事はせず、情け深い、もてなしは益々盛んで、おごり高ぶる気配は微塵もない。家に居るときは、
倹素(けんそ)にして、食、味を兼ねず、性(さが)能く飲す。時に或は沈酔(沈水=酔い潰れる)昏臥(こんが=夜寝る)す。吏、<呼有公>無駄な出費はせず、質素な振る舞いで、食事は味にこだわらず、根っからの酒好きで、時には酒に酔い潰れ昏睡する。役人が仕事があると

一口メモ

3行目に「疾して路に倒る」とありますが、この時の様子は当家十代の嶋の助武棟が、書き残した「高見権右衛門武久君ご奉公之覚」という冊子に詳しく書かれています。これは、九代の武久の文化2年以降の在勤中の出来事が書かれており、この巻末に後書きとして次の通りの記載があります。

「権右衛門武久君天保十一年十二月廿三日。若殿様寒氣御廻勤之御供被為成 御帰座至江戸。白金聖坂上ニ而御卒倒其儘死去ニ被為成候御歳。五十六歳聖坂中功運寺中ニ奉葬。御法名。真龍院殿乾道義強居士。御遺髪者高麗門妙立寺中ニ奉葬候事。高見嶋之助武棟。跋書」。

九代の武久は、根っからの酒好きであることから、今で言う脳卒中のたぐいかも知れません。この兆候として系図に下記の様に記録されています。

「天保十年四月十九日 太守様より御内々御意之趣。近来は一向、外出もいたさぬ様子、被遊 御聴、夫ニ而は、自然病など以多し候而は、今権右衛門若(もし)いたみ共してハ、おれも、けしからず迷惑する。勝手ニ無構、外出致候様、家室共へ心配もするだろふけれど、夫ハおれも承知しておる。勝手ニ出る可与以。右之趣、白金へ被移入候節 蓮性院様奥ニ而被遊 御沙汰候」。

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