高見君権右衛門墓碣銘 その2

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3020

書き下し文と解釈

自樹立す。文化二年、君年二十一、家督し禄九百石を襲、六年<為り>文化二年には、君の年齢二十一歳にして家督を継ぎ、禄は九百石で6年間
使番と為り、九年﨑陽の留守居と為り、十一年中小姓頭と為る。用人に累に遷す。使番(つかいばん)を勤めた。文化九年には、崎陽(長崎)奉行所の留守居を勤め、文化十一年には中小姓頭として昇進。これを積み重ねた結果、用人の職を得た。
<用人に>。文政二年 諦観公、日光廟に事有り、君役事に興(あず)かる。文政二年 諦観公(熊本藩九代藩主細川斉樹公)は、幕府より日光東照宮の改修工事の仕事を与えられ、君はこの役目を勤めた。
幕府之を労して、章服を賜ふ。九年 公薨(こう)す。 今、公立て命を拝す。幕府は、これをねぎらい、幕府を示す文様のある服を賜った。文政九年 細川斎樹公がお亡くなりになられた。 今、新たな熊本藩十代藩主細川斉護公から命令を拝した。
君<専ら其事を主り>亜郷の禮を以て  大将軍に入て見ゆ。十年其職を以て命して、君はこの命令を主に働き、諦了公に接すると、郷里に対する思いと同じような感謝の思いが感じられた。十年その職を全うして、
諦了公に侍せしむ。公既に老して英明衰へず、深く君の才を知り<任するに以内>諦了公に仕えた。諦了公は既に老域に達していたが、その英明さはみじんも衰えず、君の才能を深く認知して、
任するに内外の事を以す。故に群吏の計画する所、皆盡(ことごと)く、君に因て行ふ。十二年<進む>藩内外の事を計画する多くの役人の所に君を置いたが、ことごとく君が実行した。文政十二年、
斑を佐敷番頭の上に進む。天保四年、班を組外に進む。君、機を見る甚だ鋭この班を佐敷番頭の上に進め、天保四年には、班が組外に置かれるに至った。
君は機を見るに甚だ鋭く、

一口メモ

3行目に「日光廟」とありますが、これは徳川家康をまつる東照宮と徳川家光をまつる大猷院(だいゆういん)とを指します。

日光廟の修復に関しましては系図(九代15行目から)に次のような記述があります。

「文政二年九月朔日、日光御霊屋向并諸堂社、御修復御用掛被 仰付候」

「文政二年十二月二十八日、今度日光御手傳御用相勤候ニ付 公儀於 御城、御時服 三、内御小袖二、御熨斗目一、御羽織一、白銀弐拾枚、被下置旨御用番土井大炊頭、柳檜木之間ニ而、被仰渡候。」

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