高見君権右衛門墓碣銘 その1

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3020

書き下し文と解釈

高見君権右衛門墓碣銘九代高見権右衛門武久の墓碣(ぼけつ=墓の印に立てる石)に書いた銘文
宝暦の時、我が藩中ろ興る政治、既に就て、独リ才を育するの道施して、宝暦の時代に何と、この熊本藩では、既に個人の才能を伸ばすための政治が行われていたが、が出ていなかった。
未だ收めず。天明、寛政の後に及て、名卿偉才済々として、輩出し美を並ぶ。未だ成果が出ていなかった。天明・寛政の時代のになって、名だたる偉才が次々と輩出してきた。
諦了公の一世に美を並ぶ。其終に方って一人を得たり。高見君権右衛門諦了公(熊本藩八代藩主細川斉茲公)の時代の終盤に至って、一人の人物を得た。高見権右衛門、
是れ也。君諱は武久、初め數衛と称す。其の先は和田氏但馬守なる者、世々正に君である。この君の諱(いみな=生前の実名)は武久と言い、初めは數衛と言った。その先祖は和田氏で、但馬守という者が、代々
丹波和田の城主為り。三世勝五郎、諱は重治、丹後に流寓し丹波の国の和田城の城主で、その三代目が勝五郎で、諱は重治と言った。丹後に放浪して異郷に住んでいたが、
遂に我に仕ふ。氏高見に改む。九伝して君に至る。君の考、諱は政(久)。未早く卒す、嗣ぐに<以す>ついに当細川家に仕えた。後に姓を高見と改め、その九代目が君である。君が考えた事であるが、諱は政久であるが高見家を継ぐには若すぎるので、
郡氏の子、諱は政信を以す。政信又君を養て、子と為す。君少して孤として、自樹立す。郡家の子が、諱は政信と言うが、高見家を継いだ。政信も又君を養子にするが、少年ながら孤独を感じたが、際だって優れた人格を自ら樹立した。

一口メモ

上記の墓碣は、恐らく細川家の江戸中屋敷の北にあった功運寺(芝三田功運町)に置かれたと思われますが、残念なことにお寺が焼失してしまい、確認することが出来ません。当家八代は文化2年に江戸にて病死、これを継いだ九代も天保11年に、同じく江戸で病死し、いずれもこの功運寺に埋葬されていました。

焼失後1922年に中野区の上高田に移転、現在は萬昌院功運寺として引き継がれています。

この銘文は全七回にわたって順次紹介させて頂きます。漢文は初めての経験なので、おかしな箇所があるかも知れません。御指摘頂けると助かります。

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