肥後先哲偉蹟原稿 その4

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1007

くずし字解読

若殿様御近習ニ被召仕たる時分、或夜半ニ高見使して我小屋へ若殿様の近習(きんじゅ=主君のそば近くに仕える役)に仕えた頃、ある夜中に高見は使いを出して自分の小屋へ
招く、何事にやと行て対顔す、いまた酒座の儘也傍ニ一人を縛したり、招いた、何事かと思い行って対面したところ、まだ酒宴の最中だった。そばに一人を縛っていた。
是為人御中小姓御鍼料兼子民壽也、高見曰、此坊主世に追従せるこの人となりは、中小姓の鍼師の兼子民壽である。高見は言った、この坊主は自分の従者なので
ゆへ如斯と、さて又述て云、本日飛脚到着、於御国許和田庄兵衛儀このようにしていると。話は変わって、本日、飛脚が到着して、国許で和田庄兵衛という人が
御使番江転任被仰付たり、如何哉と、村上答、夫ハ結構なる事なりと、高見使番に転任を命じられた。どう思うと質問した。村上は答えて、それは結構な事ですと、高見
云、何か結構なりやと、村上云、御足高百石被下置、座席被進たり、高見云は何が結構なことかと問い、村上は足高百石をくだされ、座席も進められたという。高見は言う
御人選之御附役放れて、可喜悦事柄ニ無之趣懇々説論有之、人選を担当した人の考えを理解せず、心から喜ぶべきではないと、心を込めて丁寧に説いた。
酒など進め被返たりと及承様如、前条村上ニ向ひ、両度之仕懸、殊ニ兼子、酒などを促して帰されたと聞き及んでいる。この村上に向かって、再度の仕掛けとして、殊に兼子が、
被縛しハ、不法之為躰なから、酩酊中少敷ハ教誨の含ありてせられたる縛られたのは、不法の身ながら、酩酊中に少しは教誨(きょうかい=教え諭すこと)の含みをもって行われた
事にや、並々の人柄にて仕出遍き業にハ被考不申也、此折柄白金詰事で、普通の人が仕出(しだし=新工夫)すべき業とはとても考えられず、折しも白金詰
之面々、精務繁雑之儀を下したる、諄ニハ御郡代ゟ白金御附役、御近習御次組の人々は、細々とした繁雑な仕事をさせられた。諄(じっくり教えさとすこと)には郡代(勘定奉行)から白金の附役、近習のお次組
脇兼帯被仰付たる清成八十郎、七ヶ年江戸詰致シ、漸御供ニ而下国せりの脇役の兼帯(けんたい=兼務)が命じられた清成八十郎は、七年もの間江戸詰をして、漸(ようやく)お供として国許に帰った。
御馬役久保正助、稽古申上諄とハ云ながら、是又七ヶ年詰込たり、凡而惣裁ハ高見馬の世話役の久保正助は、稽古になるとじっくり教え諭すとは言いながら、これも又七年間詰込めた。凡而(すべて)総指揮官は高見
一人ニ而其魂気感入計也、中風起りたるもうへなり。一人で、その魂気には感じ入るばかりだ。脳卒中が起ったのも仕方のないことだ。

一口メモ

前頁に「時習館」が出てきましたが、熊本県立美術館の「藩校時習館物語」で次の様な解説文が掲載されていますので、下記の通り抜粋・引用致します。

熊本藩第6代藩主・細川重賢は財政再建と人材育成のため、宝暦2年(1752)堀平太左衛門を大奉行に抜擢し、藩政改革を断行しました。いわゆる「宝暦の改革」です。後に熊本藩の「宝暦の改革」は全国的に有名になり、重賢と堀の名は今日「名君・賢宰」として評されています。重賢は改革を推進するに際し、人材育成の重要性を考え、藩士を教育する施設を設立しました。それが、熊本城二の丸に創設された藩校「時習館」です。 時習館の教育課程は文武両道に及ぶ緻密なもので、藩士の子弟のみならず、成績優秀であれば庶民にも入学が許されたことに特徴があります。宝暦5年(1755)の開校以来、時習館は有為の人材を育成し続け、明治3年(1870)にその役目を終えました。

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