先祖附(天保11年12月23日) その10
くずし字解読
直ニ相詰可申旨、被 仰付候ニ付、龍ノ口御屋敷江、<引> | 直にでも、勤務に就くべく命じられたので、江戸龍ノ口の上屋敷に |
移相勤居申候処、用意仕廻(仕舞い)次第、可被差下之旨、<被> | (白金の下屋敷から)移って勤めていたところ、すっかりかたをつけたら、帰国するよう |
仰付、同五年十一月、江戸罷立、翌十二月、御國江、<着> | 命じられ、宝暦五年(1755)十一月、江戸を出発、翌月に熊本に |
仕候二付、御用人被遊 御免、座配持懸之通ニ而、 | 到着したので、用人の仕事は解かれたが、席順はそのままの通りで |
大御目附役、被 仰付直二、御次江被 召置旨、<被> | 大目附の役職を命じられ、直ちに控えの間に就くように、 |
仰付、病氣ニ罷成、御役儀御断申上候處、如願 | 命じられたが、病気になったので、役職を辞退したところ、願い通り |
御役儀、被遊 御免。数年相勤申候二付、直二 | 役職は解任されました。数年の働きに対して、直ちに |
隠居被 仰付、御紋附御羽織、被為拝領、<七> | 隠居を命じられ、紋附の羽織を拝領なされ、 |
拾八石六斗、旧地二置被下候段、被 仰渡候 | 七拾八石六斗を、以前の領地に下さることを、仰せ渡されました。 |
一 私高祖父、高見権右衛門儀、宝暦七年二月 | 一 私の祖父の祖父である高見権右衛門(当家六代)は、宝暦七年(1757)二月 |
一口メモ
ここに登場する細川藩の江戸藩邸である「龍ノ口御屋敷」は、江戸城龍ノ口(現在の東京都千代田区丸の内一丁目付近)にあった細川家の江戸上屋敷です。ここは和田倉門前の一等地ですが、土地が狭いため、実質の本邸は白金御屋敷であったとされます。
又、「白金御屋敷」は、現在、高輪皇族邸や港区立高松中学校などになっている一帯に存在した細川家の下屋敷(中屋敷)です。
これ以外に、高見家文書に登場してくる細川藩の江戸藩邸は、「大崎(戸越)屋敷」「浜町下屋敷」があります。
江戸東京博物館によると、「上屋敷は主に藩主とその妻子など用、中屋敷は主に隠居や世継ぎなど用、下屋敷は国元からの荷を揚げるため主に水辺につくられた蔵屋敷」とあります。